第35話 復讐劇の終わり

 建築家の天崎忠雄。

 現在は日本を離れ、アメリカで暮らしている。

 天崎忠雄は、二人の人物からひどく恨まれている。

 二人の人物とは、彼の一人息子の悠と、岡崎恭子おかざききょうこという現在は三十六歳の女性である。天崎悠より九歳ほど歳上だが、見た目では二十七歳の悠とあまり変わらないか、少し歳上ぐらいにしか見えない。


 天崎悠はカフェ「ラパン・アジル」で、本宮勝己と待ち合わせをしていたが、仕事の都合で今夜は行けなくなったと、岡崎恭子の寝室から電話を入れた。


 岡崎恭子には真琴まことという名前の年の離れた姉がいた。

 天崎忠雄は、現在アメリカで癌治療を受けている。

 癌の痛みを和らげるために鎮痛剤を投与され、一日のほとんどを眠り続けている。

 

 痩せ細った忠雄は、うっすらと目を開き、過去の出来事の記憶を鮮明に繰り返す夢をみている。


 忠雄は三年前に癌と診断された時、ついに来たかと考え、自分だけは生き残ってやるという思いを抱いた。

 だが、現在、呼吸器がなければ息もできない状況で、朦朧もうろうとした意識の中、忠雄は一匹の上海蟹になって河にいる。

 一匹のハクレンという魚になった真琴が、忠雄の上を泳いでいるのを、忠雄は両手のハサミを上げておーい、おーい、と呼びかけている。

 忠雄の指先が、ピクッと反応する。薄目を開けた忠雄の目の端から涙がさらさらと溢れてくる。


 日本ではない、ある国の都市建造で巨大なマンションなどを建造するためにコンクリートに混ぜるための大量の土砂が必要となった時、過去の核実験による放射線量が高い物質の混ざった土砂も使わなければならなかった。

 時間がすべて解決する。ビルが老朽化して破壊され、残骸になり土に埋められるまでに、放射線量は毎日少なくなっていく。

 人体へ影響を与えるとしても、それは一時的なもので、深刻な被害を及ぼすものではない。

 忠雄は、そうした説明を受けている土砂を使った都市建造のプロジェクトのデザイナーの一人として参加していた。

 忠雄だけではない、世界各地の建築家がこのプロジェクトに呼ばれ、競い合うように都市を開発したのだった。

 

 いつか運が尽きたら、影響があるかもしれないが、確率論から考えれば、かわりに得られる名声や財力を考えても、不穏な噂を追及して時間を浪費するより、自分にまわってきた与えられた役割を建築家として果たすことを、忠雄は選んだ。


 放射線量の高い土砂とそうではない物質を混ぜることで人体への影響は軽減する。そうして建造された都市によって発展した国が得られる経済的な利益は、たしかにあった。それはその国だけでなく他の国へも経済的な動きをもたらすことになった。


 全身に癌が転移してしまった忠雄は、夢で泥まみれの上海蟹になって見上げている。

 白銀の鱗のハクレンになった岡崎真琴が、水面から降り注ぐ光の明るさのなかで、優雅に尾びれを揺らして泳いでいる。


 真琴が産んだ悠だけを忠雄は引き取り、彼女と彼女の年齢が離れた妹が暮らしていけるだけの金を渡した。真琴は離婚後、悠に会うことはなかった。

 真琴が震災で亡くなったあと、妹の恭子が悠の頭を撫でたのも思い出している。忠雄が真琴を思い出しながら、恭子を抱くかわりに、真琴が経営していた店や土地を忠雄は買い取り、それらの権利を恭子へ譲渡した。


 天崎悠は恭子こそが父親の愛人で、母親の真琴を自分から奪った敵だと思い込んでいた。

 幼い悠の頭を優しく撫で、泣いていた母親だと思っていた人は、姉の訃報を、邸宅に住む天崎忠雄に知らせに来た妹の恭子だった。


 天崎悠は、母親を自分から引き離した愛人を弄ぶつもりで、歳上の恭子に近づいた。父親に意識が戻った時、名声だけでなく愛人も受け継いだと罵倒してやるつもりだった。

 恭子もまた、天崎忠雄の息子、姉の忘れ形見の悠を、姉を利用して捨てた天崎忠雄に復讐する協力者に選んだのだった。

 姉のことを天崎忠雄が一生忘れないように、そして、もし悠が父親の忠雄と同じ生き方を選んでいたら、破滅させるために素性を隠して近づいた。


 有名な建築家として悠が恭子の店に客としてあらわれた夜、恭子は接客しながら、幼い悠の頭を撫でた時に「おかあさん」と自分を呼んだのを思い出してしまい胸が熱くなったのを、悠にベッドで話した。


 悠は酒を飲み過ぎたせいか、自分が思いちがいをしていたことに動揺したせいか、恭子との夜はえてしまって使い物にならなかった。

 恭子は、悠から天崎忠雄はもう起き上がることや会話すらできなくなっている状態だと聞いて、憎しみをぶつける相手がいなくなったことに呆然としながら、悠に全裸でただ抱きしめられて、泣きながら眠ってしまった。


 ただ私は優しく誰かに抱きしめられたり、優しく抱きしめたかったのだと恭子は、朝、隣で眠っている悠のきれいな寝顔を見ながら思った。


 恭子が自分の店に出勤するまで悠は一日、恭子と過ごした。

 母親というよりも、もしも自分に姉ができたら、きっとこんな感じだろうと悠は思った。





 

 





 










 





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