★第13話 十九歳 噴水広場の青年
「すごーい」
「へえ、うまいね」
ちょっとした小遣い稼ぎなのか、パッドタイプのB5サイズのスケッチブックから描き上がった似顔絵を彼から受け取った女子高生ぐらいの二人組の子がはしゃいだ声を上げた。
(紺色のキャップを目深にかぶり、白パーカーにジーンズの体の線が細いすらりとした青年は、昨日もこの噴水広場で絵を描いていた。
四年前、山口誠司はある青年に心を奪われ、恋に落ち、一緒に旅をしたことがある。
ビニールシートを広げた上に、客に見せる見本として、彼の描いた風景画や人物画の鉛筆画と水彩画が並べられている。
ふっくらとした肌。
艶かしい唇。
睫毛の化粧ぐあいまで、繊細に描かれた女性の横顔。
建物を中心とした街の明るく淡い色彩風景画。
それらの作品とは対照的に顔立ちの整った青年の表情は、笑顔でも、どこか憂鬱そうな雰囲気がある。
女子高生らしい子たちが離れて行くのを、少し離れたベンチの木陰でじっと待っていた。誠司は缶コーヒーを飲み干すと、キャンプ用品の椅子に腰を下ろした似顔絵描きの青年に、誠司はゆっくりと近づいていった。
似顔絵描きの青年は、誠司の取り出した写真を見つめた。
写真の中では、幼女と妻が芝生の公開で並んで座り、カメラを構えた誠司を見つめて微笑みを浮かべている。
「この二人の似顔絵を頼みたいんだが、写真でも大丈夫かな?」
「水彩画じゃなく、簡単な鉛筆画のデッサンでいいなら、明日の昼までには描き上げられるよ。この二人のいる場所は、この噴水広場でいいんだね」
「ああ、それで頼む」
誠司は妻と娘と死別している。
正確には妻が運転中に、信号無視の脇見運転の車に突っ込まれた。
事故の原因であるワゴン車の運転中は、事故死していた。軽自動車の助手席に同乗していた娘の芹菜は死亡してしまった。妻の清美は負傷していたが、命に別状はなかった。
そして、清美は罪の意識に苛まれ、誠司に謝り続けていた。自殺する前日の夜まで。
妻の清美と娘の芹菜の笑顔は、もうアルバムの写真の中でしか見られない。
誠司は目を閉じても、娘の損傷した遺体と、謝り続けて泣き続ける清美の顔しか思い出せない。
誠司は、妻の葬儀のあと広告代理店の職を辞めた。
そして妻と娘の思い出を、ひとりで部屋で泣きながら、散文詩として書き上げた。
「かりそめの水、または冬の旅へ」
その作品が有名な賞を受賞したことで、今まで発表されていた作品をまとめた詩集が出版され評論で執筆依頼が入るようになった。
誠司は、そうしたことは青年に似顔絵を依頼した時、何も説明しなかった。
翌日は午後から雨が降り始め、誠司が絵描きの青年は来ないと思ったが、午後四時、気になって行ってみると青年は傘をさして、噴水広場で、依頼者である誠司を待っていた。
「ああ、やっぱり来ると思った。ここだと絵が濡れる。デパートのレストランかどこかに行こうよ。寒い」
「もしかして、君は昼からずっと待ってたの?」
「それはもう、どうでもいいよ。約束を守ってちゃんとあなたは来たんだから」
似顔絵描きの青年が誠司に描いてくれたのは、しゃがんだ清美に甘えて首に抱きついている芹菜の背後に噴水が上がっている絵だった。
誠司はその絵を見たら予想以上になつかしさがこみ上げてきて、胸がつまってしまい、一度席を立ちトイレの個室で泣いた。
トイレから誠司が戻ると、青年はいなかった。
「テーブルの上には、美術館のチケットと、律儀に珈琲代の小銭が置いてあった。
エントランスに入ると独特の静けさがあり、ガラス張りの天井からは光が降りそそいでいる。
美術館は駅からさほど離れていないが、特別な雰囲気があった。
誠司は青年に絵の代金を払いたいと思い、三日間、噴水広場へ訪れたが、絵描きの青年と会うことはできなかった。
そこで、青年の残して行ったチケットに、何か再会できる手がかりがあるかもしれないと美術館へ来てみて、周囲を見渡してみて苦笑した。
いつ誠司が美術館に来るのかなんて、絵描きの青年は知るはずがない。
青年が美術館にいるかもしれないと考えた自分の浅はかさに、誠司はため息をついた。
小松美羽……片山真理……熊谷亜莉沙。川内理香子……西條茜……近藤亜樹……對木裕里……藤倉麻子……松井冬子……杉原玲那……スクリプカリウ落合安奈。橋本晶子……水野里奈……村上早……迎英里子……百瀬文。
現代アートの展覧会のチケットだったので、誠司はあれこれとながめているうちに、つい作品に夢中になってしまった。現代アートは誠司には理解することはできないけれど、それぞれの作品に、気迫のようなものを感じた。
展示された作品をながめ終えたあとには、心地よい疲労感を感じていた。
美術館の二階にカフェがあり、そこで誠司は珈琲を飲んでいた。
「来てくれたんだね。でも、ここじゃ、あまり長話はできないんだ。これ……またあとで」
あの絵描きの青年が、黒のパンツに白いポロシャツに、エプロンをつけて立っていた。
すっと紙ナプキンに電話番号を書いて誠司の前に置くと、青年は足早に店の奥に戻ってしまった。
青年は、絵の代金はいらないと誠司に言った。
「あの絵はあなたの心を縛るだけで、癒してくれるわけじゃないから。忘れたくないんだね、ふたりのことを」
「戒めとして、かな。たぶん」
アート・セラピスト、という言葉を誠司は青年から聞いて初めて知った。
「その人が描いた絵を見て、その人が心にどんな悩みを抱えているかをセラピストは思い浮かべて、その問題点を悩んでいる人と話し合って解決する」
「心理療法?」
絵描きの青年は、誠司のかわりに絵を描いた。渡した絵を見た直後に、誠司が泣きそうな顔になったのを見て、彼はしまったと思ったらしい。
「丁寧に描いたけど、泣きそうになるほど感動する絵じゃない。そうなったのは、資料の写真に写ったモデルのふたりに、あなたが思い入れがものずごくあるってことだ。あの絵に感動したわけじゃないんだよ。だから、代金なんてもらえないよ」
誠司は青年からそう聞かされて、自分は亡くなった妻や子供の死を受け入れるための儀式として「かりそめの水、または冬の旅へ」という散文詩を書いて、作品として公表したのだとわかった。
誠司の作品集を読んでいた青年がわからないと、一言だけ感想をまっすぐ誠司の目を見つめて答えた。
「正直なんだな、君は」
誠司はほぼ衝動的に動いて、青年を床に押し倒す。誠司の描きかけの肖像画が描かれているスケッチブックと鉛筆が床に転がった。
この若い恋人と出会わなければ自分の見た目をそんなに気にすることはなかったと、誠司は思う。
年相応に見えて、ただ年月を重ねて老いていくのが自然なことだと誠司は思っていた。
だけど、目の前の青年があまりに若く美しいので、どうしても悲観せずにはいられない。
誠司は腕をのばして、青年のもみあげあたりにふれた。手の甲で青年の頬を撫でる。すべすべと柔らかな肌。
「メガネを外すとなんか若い感じに見えるね、あなたは」
青年は
直にふれたら絶対に途中で止まれなくなる。けれど、誠司の手に青年は手を重ねて、自らの肌に誘ってくる。
誠司は俳句講座を終えると、タクシーに乗車して仕事場と兼用のマンションの自室へ戻ってきた。
誠司は一緒に旅をして、早朝の雪原の鶴をテントから出て見た青年のことを思い出して、インスタント珈琲を淹れて飲んだ。
その旅のあと、絵描きの青年はどんな事情があったのか、別の恋人ができたのか、誠司との連絡を一切絶ち姿を消した。
(結局、彼は名前を教えてくれなかったな……僕は今夜どうして彼のことを思い出したんだろう?)
空放つ凍鶴の声ありにけり
四年前の恋人との冬の旅を思い出を、天崎悠は詩人サークルの本宮勝己へむけて、恋心を秘めた一句として詠んでいる。
山口誠司は天崎悠との出会いと別れから、創作活動で自分の心を癒す儀式とすることを止めた。
そのかわり、青年の描いた絵が誠司の心をゆさぶったように、自分の作品がどうしたらいいのかわからなくなって、悲しむことも忘れかけていた自分と同じような、読者の誰かの心に届いてくれたらいいと思うようになった。
近代は、普遍性を追求し、普遍性があると考えられた西洋文化の模倣の時代だった。
それは、暦の変化、服装、人間関係、思想だけでなく、十七音の俳句にも及ぶ。それは、まず明治の半ばに、正岡子規の創作活動という形になってあらわれた。
子規は、俳句を西洋文学に匹敵する日本の国民文学にしようと試みた。そのために、俳句から人々を遠ざけていると思われる根拠や伝統的な和歌まで批評して、俳句への垣根を取り除こうとした。
やがて連句と、それを支える連衆の座を否定する。
それは、同時に俳諧にまつわる古典や故事の知識という少数の知識人にしか通じない約束事を排斥することだった。
そのかわりに、どこにでもある、誰にでもふれることのできた自然を詠むことを推奨した。
自然と自然の中で暮らす人々を、古典の約束事に縛られないで詠む方法として写生を提唱した。
しかし、それが、俳句そのものを分かりにくいものにしてしまった。
切れを使って、省略された言葉を放り出すように並べることで、読者がその言葉から想像力によって読み取る俳句独特のわかりにくさがある。
季語や切れがなければ、たしかに多少はわかりやすくはなるかもしれない。しかし、独特の工夫を手放したあとに何が残るのか?
一行の言葉足らずの散文。
俳句の痕跡のようなものかもしれない。
日本の近代化は、どこにでもあった自然を開発して、限られたところにしてしまった。自然を美しいものと脚色すりは囲いこみによって、懐古されるものとして扱われるものと考えさせるものとしてしまった。
もうひとつは、句の素材として自然だけにとらわれないでもかまわないという傾向が芽生えた。
昭和になると、戦争の事実や体験、思想や、時事的なことを知らなければわからない俳句が好まれて詠まれた。
正岡子規は俳句を詩として広めることは成功したが、別の読解な特殊な知識が必要とする傾向を生み出す結果となった。
四年前、噴水広場で似顔絵を描きながら、自分の性癖や個人的な恨みを隠して、ただ心から人とつながる方法だけを探していた十九歳の青年がいた。
俳句に興味を持ってやってきて恥ずかしそうに言葉を口にしていた喫煙所で出会った若者に、山口誠司は、噴水広場で出会った絵描きの青年の面影を重ねていた。
三十六歳の山口誠司は、噴水広場の絵描きの青年が描いてくれた妻と娘の絵を、人に見せることはないが、今でも手放さずに大切に保管している。
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