★第14話 憧れの人のキス
春の海ふたりに今日の揮発性
俳句講座に母親に連れられて参加していた十五歳の
この一句にどんな思い出が込められているのかを、
母親や大人たちには知られたくない秘密だったから。
「美玲ちゃんは、誰かとキスをしたことはある?」
したことがないと答えると、周囲に誰もいないのを見渡した
唇をついばむようなキスで唇を奪われて、美玲は身をこわばらせた。
美玲は十四歳で、初めてのキスの相手の渡辺瑞希は十六歳。
夕暮れの辱暑のなか、海辺の防波堤沿いの道を、美玲は瑞希の制服姿の背中をちらちらと見つめながら、何か話さないといけないけれど、頭の中に瑞希にかける言葉がわからず、うつむきながら、とぼとぼと歩いていた。
美玲の初恋の相手は、瑞希という年上の女子高生。二歳しか年齢は離れていないはずなのに、瑞希は美玲の想像する以上につらい体験をして、絶望しているように思えた。
瑞希が何をされているのかを聞かされて、美玲が思わず泣き出したあと、髪を撫でた瑞希は「美玲が泣いても何も変わらないから」と言った。
ぽつりと自分に言い聞かせているような小さな声で。
「私は自分のことを人形だと思い込んで、我慢することにした。あいつが満足したら、もう何もされないから」
瑞希の母親の身体は、転移した癌に蝕まれていた。もう一年間、治療のために有名な他県の病院で入院していた。
高校生の瑞希には、高額な治療費や学費も払う方法がない。
母親が再婚したあいつに、今は頼らなければ生活していく手立てがない。
母親はもう助からないかもしれないと瑞希は半ばあきらめている。
それでも、あいつが最低な嘘つきだと教えることは、闘病中の母親をひどく悲しませ、生きる気力を奪うことになるのはわかっているので、最後まで言えなかった。
すっかり放射線治療で頭髪も眉毛も睫毛まで抜け、爪まで影響を受けているが「おかあさん、癌なんかに負けないから」と言って、瑞希に作り笑いを見せてくれて励まそうとしてくれている母親を悲しませたくなかった。
嘘つきのあいつは、ぐったりと脱力して泣いている瑞希に
「誰にも言うなよ、そんなことをしても誰も得しないからな」
と窓を開け煙草をふかしながら、平然と言い放った。
瑞希は海を見つめているのが好きだと、美玲に話していた。
本社から転勤してきた二十代後半のあいつと、三十代半ばの事務職の瑞希の母親が出会った。
転勤してきたばかりの社員のあいつに、優しく愛想の良い瑞希の母親は、何度も誘われた。
「瑞希ちゃんには父親が必要だし一人じゃ大変だろう。俺なら手伝ってあげられるからさ」
その言葉を信じた母親は、嘘つきのあいつと再婚した。
母親が再婚した頃、まだ九歳だった瑞希は、乳幼児の頃に父親を交通事故で亡くしていたので、父親の顔を仏壇の遺影でしか見たことがなかった。
いまいち父親という存在に実感はなかった。ただ瑞希は他の家庭に父親がいるのが羨ましかったし、他の子とはちがうと、引け目のようなものを感じていた。
母親が体調不良で病院へ行き、血液検査から癌の疑いがあるとわかると、あいつは癌治療では有名な遠い他県の病院へ入院させた。
志望した高校に入学できたばかりで、ほがらかに良く笑う母親の若い頃の姿に似てきた瑞希と、結婚後に職場でそれなりの役職を任されている父親は、二人で暮らし始めた。
それから一年間で、瑞希は父親を最低の嘘つきと軽蔑するようになった。
「もしも、私のおかあさんが死んでしまって、高校を卒業したら、ここから遠いところで就職して、一人で暮らすつもり」
美玲は、瑞希が耐えきれず自殺してしまうのではないかと心配で、放課後から夕方の六時過ぎ、嘘つきのあいつが帰宅する夜七時になる前に帰されるのだが、瑞希の暮らしている家で彼女と過ごしていた。
瑞希は成績が良く、美玲の母親からは「家庭教師として、瑞希ちゃんには月謝を渡さないとね」と言われていたし、実際に美玲の学校の試験の成績は、かなり良くなっていた。
瑞希に教えてもらっていることは学校で習う勉強だけではなかったけれど、のんきな母親には気づかれなかった。
「数学も英語もちゃんと満点。美玲ちゃん、ご褒美に可愛がってあげる」
美玲が、瑞希の体がやつれていっていると抱きあって気づいた時には、過食と指を喉に突っ込む吐き癖がついてしまっていた。
「美玲ちゃんみたいに華奢で、きれいなら良かったのに。私のからだ、胸やお尻も肉がついていて、本当に気持ち悪い……包丁で切り落としてしまいたいぐらい」
美玲は子供っぽい自分の体つきは好きではなかった。でも、目を閉じて瑞希から愛しげに撫でられていると、このまま成長しなくてもいいとさえ思えてくる。
美玲の母親も離婚していて、もう父親と呼べる人はいない。父親は別の女性と再婚していて、別の家庭を持っている。
美玲の母親は、恋愛して再婚する気がまったくないらしい。
輸入雑貨のネットショップの売上と、海外のアンティークの骨董品を収集することが楽しくてしかたがないようである。
美玲が母親に「もう再婚する気はないの?」と聞いてみたことがある。
母親は美玲と自分の二人で生活しているほうが、恋愛しているよりも自由で気軽だと笑っていた。
「私のことが好き?」
うなずいた途端に胸のふくらみを
「こんなことをされても、まだ、私のことが好きなの?」
美玲は爪が食い込む痛みに耐えながら必死でうなずくと、瑞希はため息をついて手を離した。
瑞希の母親が亡くなっても、まだ卒業まで期間があった。
「私は、あなたのことが好きよ。でも、妹みたいに思える時があるのよ。あなた、私に同情してるわよね。でも、私はあなたが思っているほど、かわいそうじゃないから」
姉と書けばいろは狂いの髪地獄
(寺山修司「花粉航海」)
瑞希の父親は家を売却し、拒食症になった瑞希を連れて、どこかに転居してしまった。
美玲も、母親がアンティークの雑貨屋を開店するのに気に入った内装の貸し物件が見つかったので、瑞希との思い出がある海辺の町から、転居することになった。
美玲は瑞希の優しい声も、気性の激しさも、絶望していても浮かべていた微笑も、忘れられない。
最後に瑞希と会った時、美玲のことを瑞希はすっかり忘れてしまっていた。
「ねぇ、あなたは、誰?」
美玲が泣きながら抱きつこうとした。すると、瑞希に高笑いされながら、両手首に真っ白な包帯を巻いた痩せた腕を出された。
美玲は胸のあたりを突かれて、床にぺたりと転ばされた。
(さようなら、瑞希さん)
美玲は瑞希に拒絶された時、ただひたすら悲しかった。
憧れて、キスをされて、恋した瑞希という人は、目の前からいなくなっている。
それがわかっていても、まだ自分の胸の奥には、爪を立てられて鷲掴みにされた痛みよりも鋭く鮮やかに
自分にはどうにもできないとわかっていても、もう諦めて忘れるしかないとわかっていても、まだ胸の奥の痛みが消えない。
美玲は瑞希の心のなかに、自分と同じさみしさと、誰かに愛されたい気持ちがあって、まるで呼び合うように出会った気がしていた。
「海を見るのが好きなんですね」
声をかけた美玲に、海を見つめていた瑞希は、何を感じたのだろうと想像してみた。
何もわからない。
高笑いしている瑞希の瞳に、部屋の床に倒れ込んでいる自分の姿が浮かんでいた。瞳はまるで、小さな鏡のようだった。
瑞希の住んでいた家には、しばらくすると雑種犬を飼っている三人家族が引っ越してきた。
美玲がその家の前で、思わず立ち止まるたびに、柴犬と何の犬種が合わさっているのかわからない人なつっこい雑種犬に、尾をふって吠えられた。
秋深き隣は何をする人ぞ
(芭蕉)
隣は秋の深みの底でしんと鎮まっている、いったい何をしているのだろうか。
この芭蕉の一句には、本歌がある。和歌や俳句ではない。唐の詩人、
崔氏の東山の草堂 杜甫
愛す 汝の玉山草堂の静かなるを
高秋の爽気 相鮮新なり
時有りて自ら発す 鐘磐の響き
落日に更に見る
飯には
美玲は瑞希と離れしまってもまだ気づかっている思いなど関係なしに、犬が甘えて吠えている。
勧酒 于武陵
君に
人生
作家の井伏鱒二は、この詩をこのように訳している。
コノサカヅキヲ受ケテクレ
ドウゾナミナミツガシテオクレ
ハナニアラシノタトヘモアルゾ
「サヨナラ」ダケガ人生ダ
出会いがあれば、必ず別れがついてくる。
美玲はすでに十五歳にして、人生とは愛する人たちとの死や別離にめぐり合うことがあり、最後には自分自身の死を迎えることになるとわかってしまった。
仏教では、生老病死と呼ばれて、人がこの世で
残酷かもしれないが、ときおり人生にあらわれてくる
ならば、人は嘆いているばかりではなく、どうやって生きていくことができるか。
美玲の母親の経営する雑貨屋を訪れた常連客の一人に、音楽と絵画と詩を愛する優しい初老の男性がいる。
カフェに置くアンティークのランプを探していると、土曜日の夕方に、母親に頼まれて掃除と店番をしていた美玲に、訪れた初老の男性は相談を持ちかけた。
ラパン・アジルというカフェの店主の
村上さんが珈琲以外にも、音楽や絵画だけでなく、俳句にも興味があると聞き出した泉理香は、俳句関連の入門書を読んでみた。
さらに、一人では場違いな気がして落ち着かないので、娘の美玲を連れて、俳句の知識を手軽に学ぼうと俳句講座に申し込んだ。
美玲の心に抱えている深い悲しみや、どんなに愛していても思うままにならない無力感とは関係ないところで、雑種の飼い犬が吠えるように、あるいはラパン・アジルの店長の村上さんが、散歩の途中で骨董品が置かれた雑貨屋に気づいてふらりと立ち寄るように、思いがけない出来事によって、それぞれの人生において影響を与えあうことがある。
最近、美玲は母親が土曜日に店番を頼むことが減った気がしているのだが、母親に恋心が芽生えていることには気づいていない。
美玲は小遣い稼ぎの店番が減ったので、余暇を持て余していた。
そこで、休日だけ気晴らしに、アルバイトでもしてみようと思いついた。
憧れの瑞希との恋に溺れきっていた頃とくらべてしまえば、もう何をしていても楽しくない。
生活していれば、それなりに緊張したり、うれしいことはある。
俳句講座で思い出をそっとしのばせた一句を講師に褒められたことも、たしかにうれしいことではあった。
それぞれの思いと人生は、生きていく限り続いていく。
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