第1話 コカ・コーラの詩集
図書館の窓から見える景色が、僕は好きだ。
図書館で、窓の外の木の枝に葉がついているうちは、緑が光に透けるように明るい。季節が変わって色づいていくのもいい。
窓枠がまるで絵画の額縁のように思えるほどで、風にそよいだり、雨に濡れている日も別の雰囲気を楽しませてくれる。
この景色が見える窓辺のテーブル席を、僕は気に入っている。
僕は仕事の休日には、図書館に来ている。
夏は涼しく、冬は暖かい。
一人暮らしをしているけれど、部屋は疲れて帰って眠る場所という感じで、仕事と仕事の間の時間をだらだらとすごすための場所にすぎない。
僕は図書館で絵画の画集をながめたり、小説を読んだりして、飽きると外の喫煙所で一服したりして外出している気分にひたる。
趣味と聞かれたら図書館、ただひとつの趣味答えるつもりだ。
でも、僕には趣味をたずねてくれる友達は、誰もいない。
図書館は、誰かに話しかけられることはない。まるで人間も景色の一部のように。
大声を上げたり、スマートフォンで通話したりしなければ干渉されることもない。
昨日までは、工場で流れてくるフィギュアの製品の箱詰めを残業して続けていた。
何も考えない。
自分が機械だと思えてくると、慣れてきてつらさはない。
販売前の商品なので、売り出される前に情報が外部に漏洩しないように、工場内で勤務時間中は更衣室のロッカーに、スマートフォンはしまわれている。
作業着から着替えて、工場を出て駅までのバスに乗る頃には日も落ちて、一日が過ぎている。
僕は人生の時間を売って給料をもらっている気分になっている。
図書館と一人暮らしの部屋と工場では、それぞれ別の時間が流れている感じがするのは、僕だけだろうか。
僕はこの図書館で、詩に出会った。
昼食を牛丼屋で済ましたあと、図書館に行き、小説でも読もうと本棚をながめていると、一冊の文庫本が目に止まった。
たまに横着な人が小説の文庫本の棚に、小説以外の本を戻してしまうことがある。
コカ・コーラの画像が表紙になっている文庫本の詩集。
谷川俊太郎詩集「朝のかたち」だった。
僕はそのままお気に入りの席に座って、読むというよりも書かれている言葉をながめ始めた。
それがちょうど一年前の話だ。
「それが、この本なのね」
僕は最近、友達がいっぺんに二人もできて戸惑っている。
今、斜め向かいの席で「コカ・コーラの詩集」と僕があだ名をつけた文庫本を黒髪のすっきりした顔立ちの美人が読み始めている。
彼女は水原綾子。出版社で有名なファッション誌の編集者をしているらしい。
もう一人、絵本をながめる子供みたいに画集をながめて、にっこりと笑いながら気に入った絵を指差して僕に教えてくれる、水原さんとは見た目のタイプがちがう女性がいる。
彼女は藤田佳乃。
声がかわいらしいのと、童顔で、僕とならぶと彼女は見上げる感じになる背丈で、年齢よりも若く見られてしまうことが彼女の悩みらしい。
僕は172センチだが彼女は水原さんより背か低い。彼女は153センチだが、150センチ以上あるので、自分は背は低くないと言い張っている。
僕ら三人はいちおうサークルのメンバーで、僕が「部長」ということになっている。
図書館の掲示板には、他のポスターや図書館の告知物にならんで、僕の手書きで書いた「詩人サークル会員募集中」のA4サイズの張り紙が貼ってある。
彼女たちは僕の書いた張り紙を見て、図書館の職員さんに「詩人サークルの本宮勝己さんは今日は来てますか?」と聞いて、僕を見つけて声をかけてきた。
一年近く貼らせてもらっているのに、誰もサークルに入会したいという人がいないので、そろそろはがしてしまおうと思っていたところだった。
実績ができてしまった手書きのメンバー募集の張り紙は、引退しそびれて、まだ図書館に貼らせてもらってある。
僕は「コカ・コーラの詩集」を一気に読み終えて、ふぅとため息をついたあと、奥付けの前の余白のページに万年筆か何かの流暢な筆致で書いてある落書きがあるのに気がついた。
詩人はモテる
たしかにそう書かれていた。
筆致からは男性が書いたのか、女性が書いたのは僕には判別できなかった。
僕はその落書きを見たとき、しばらくぼーっとしてしまった。
モテるってどういうことか考えるほど曖昧になっていく感じがしたからだった。
どのような男性・女性がモテるのか僕のなかではわかっていたつもりでいたが、本当はわかっていないことに気づいてしまった。
自己肯定感を上げる手段のためにモテたいと考える人もいる。
例えば恋人をつくる気がなくても、親しく話しかけてくれる相手とすごしたいとか、恋人や結婚していてパートナーの人がいても別の相手からモテたいと考えている人はいる。
誰かにほめられたり、頼られたりして「モテる」状況を利用することで、自分の自信がつくのを重視しているわけだ。
なぜ詩人になると「モテる」のかを、僕は窓の外をながめながら考えていた。
もしかすると、詩を読んだり書いたりすることが、承認欲求を満たしてくれるのかと考えて思わず一人で苦笑いしてしまった。
席を立って僕は「コカ・コーラの詩集」を小説ではなく、しっかり本棚の詩集のコーナーへ戻しに行った。
「ふだん立ち寄らない知らない場所に迷いこんだような、不安な感じがしたんだ」
「えっ、不安?」
「そう、こわい感じ」
図書館を出て、ラパン・アジルでふたりと、僕はコーラを飲みながら、その時に想像したことをゆっくりと話してみた。
藤田さんは僕の言った「こわい感じ」という言葉を繰り返して首をかしげた。
小説はストーリーがあって完結する。ナレーションは、説明のために朗読し続ける。
でも、詩は終わらない。
他の詩集にも詩が本のむこうに人がいて、こちらに話しかけたり、ひとりごとをつぶやくように書かれているものもあって、呼びかけられている感じがした。
「そう言われてみると、手紙みたいな感じがしたわね」
水原さんはそう言って、アイスレモンティをひとくち飲んだ。
僕はそれを聞いて、そうか手紙に似てるのかと思って、妙に納得してしまった。
「なのに、詩のサークルのメンバーを募集したのは、なぜ?」
僕は詩を読んで、本のなかから誰かがこちらにそっと語りかけてくるような感じがして、ちょっとうれしかったからだ。
「誰かとおしゃべりしたくなったからかな」
僕は水原さんの質問に、そんな返事をした。
すると、藤田さんが水原さんの隣で深くうなずいた。
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