第2話 もうひとつの名前(前編)
俺たちは、名前で認識されている。親が社会に登録してくれた名前、そして、一生つきあっていく名前を看板として掲げながら生活している。
当たり前のことだと思っているから、相手から名前を間違えられたり、忘れられていることは、まるで存在そのものを自分の人生とは無関係だと打ち明けられたような気分になる。
依頼者にとって俺は「有名な建築家」という専門家でしかなく、それ以上でも以下でもない。
デザイン重視で、店じまいしたホストクラブの建物の一部の装飾の改装を依頼してきた依頼者は、自分より二十五歳ほど若く、俺がまだ三十歳になっていないのを羨ましいと言って笑った。
接待の席で同席したホステスの女性たちに「建築家の先生」と紹介したが、酔って俺の名前を失念して「とにかく、雑誌とかでも紹介されている有名な人なんだよ」と言って、自慢していた。
依頼者は自分が商売で成功した人物で、勲章を自慢して見せびらかしたい。うまくすれば、お気に入りのホステスのママに、ちやほやされるのではないかと考えたらしい。下心がばればれの鼻の下をのばした顔だ。
クラブのママが俺に「すごい人に会わせていただき光栄ですわ」と言って、ヘルプのホステスに俺のグラスのおかわりの酒を用意させている。
俺は黙ってながめている。
俺はまだ三十歳になってもいないのに「建築家の先生」と呼ばれている。
それは、俺の評判の土台になっているのれん分けしてもらった建築家が、大手企業の本社ビル内の装飾を任され手がけた実績と評判があるからだ。
鼻の下をのばしている自称「実業家」の初老の男性に自分の店を用意してもらう予定のこのクラブから独立するホステスは、この店では、俺に微笑している美容整形したママに雇われている従業員にすぎない。
このクラブの経営者のママ。
俺は十年前の彼女の顔を覚えている。彼女は俺の父親の愛人だったことがある。
俺はガキだったから、彼女のことをとても美人で上品な女性だと思い込んでいた。
彼女が俺の父親のことや俺のことを覚えているとまったく疑ってなかった。
たしかに俺の顔立ちは母親に似ているが、声は父親に似ている。
俺は自分なりに必死に努力してきたつもりだ。つらいときは、父親がたんまり貢いだ、目の前で談笑しているこのクラブの経営者の女性のことを思い出して、ひとつずつ建築のことを学んでいった。
今回の依頼を受けたのは、依頼者の初老の男性が、このクラブのママが雇っている人気のあるらしいホステスの独立をバックアップしていることを知ったからだ。
依頼者の金払いが良いことや依頼者を虜にしているホステスに興味があるわけじゃない。
依頼者が店を用意したら、俺と年齢が変わらないホステスは務めているこのクラブを辞めて、依頼者の愛人になることを条件に経営者の肩書きを持って仕事をする。
それだけのことだ。
稼ぎ頭の若いホステスが店を辞めたら、このクラブの経営者である父親の浮気相手だった女性にはかなりの痛手になるだろう。
復讐なんて気のきいた大げさなものじゃない。嫌がらせぐらいなものだろうか。
二十七歳。
俺は父親の貢いだこの女性の顔をまともにまっすぐ見つめることが、まだできやしない。
酔って自宅のマンションの部屋にタクシーで帰宅すると、部屋にいて眠っているはずの、俺の部屋の居候はいなくなっていた。
「こんな日が来るとは思ってたけど、最低な気分だな」
俺のマンションに住み着いていた居候のガキ。
まだ二十歳だと言っていたのが本当なら、七歳ほど年下のあいつと初めて出会ったのは、会員制のいわゆるゲイバーだった。
だから、その場限りの関係で終わると思った。俺の肩書きを話さなくてもいい場所は、無駄な緊張感を持たなくてもすむ。
泊めてやったら、そのまま三ヶ月やつはこの部屋でアルバイトをしながら住み着いていた。
部屋はただの寝場所みたいになっているから、私物は仕事関連の資料、衣服、パソコン、ベッド、洗面用具、あとは、インスタントコーヒーとマグカップぐらいだ。
「住ませてもらってる家賃は、体で払うよ」
「いいんだな、本気にするぞ」
俺はやつの名前を知らないまま、三ヶ月ほど同棲していた。
名前は必要なかった。
あいつのことを俺は「おまえ」と呼んでいたし、やつは俺のことを「あなた」と呼んでいた。
やつの使っていた歯ブラシや下着なども置き去りになったまま一週間が経過しても、あいつは部屋に戻ってこなかった。
「あなたはいつから自分がゲイって気づいたの?」
「おまえはどうなんだ。男から体を好き放題にさわられても、嫌じゃないのか?」
あいつは、俺にならさわられても嫌じゃないと言って、少しはにかんでいた。
それで気持ちがふれあっているような気分がしていたのは、きっと気のせいだったのだろう。
それでも、俺の生活は変わらない。ただ、秋風が胸のなかに沁みこんでくる気がした。
俺はやつの残した私物を処分したが、部屋にはまだ目に見えない気配みたいなものが残っている。
俺は久しぶりにカフェ「ラパン・アジル」に行ってみることにした。
(ここは変わらないな、珈琲も、この油絵も)
店長の村上さんに声をかけると、レコードを取り出してきて、古い曲をかけてくれる。
村上さんの髪は白髪が増えたが、ぼそぼそと話す感じは若い頃から変わっていない。
「最近は、君みたいにレコードを聴きたがる客はいないな」
村上さんは仕事の依頼主の初老の男性より年上のはずだが、十年前からずっと俺にとっては変わらない人だと思えた。
飾られている油絵は、村上さんがユトリロのこの絵が好きで模写したものだ。
村上さんは、俺がゲイだということに気づいているのか、いないのか。そこはよくわからない。
俺はラパン・アジルを久しぶりに訪ねたあと、図書館に向かった。
この日、俺は一人で読書に耽っている本宮勝己を見かけて、はっと息を飲んだ。
俺は何回か躊躇して図書館の中をうろうろと本を探しているふりをして歩きまわっていた。
すると、彼が立ち上がり、図書館の掲示板の前で一枚の張り紙をじっと見つめてから、外の喫煙所へ向かうのを見かけた。
(これは以外だな、あんな優しげな顔をして、彼は喫煙者なのか)
俺は彼の見つめていた手書きの張り紙を見て、主催者の連絡先の電話番号を手帳にメモしてから、図書館を出た。
この日、俺は彼に声をかけることができなかった。
俺が詩人サークルに参加した動機は、かなり不純だったことに関して、たしかに認めざる得ない。
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