第55話 Tomorrow never knows

 藤田佳乃は、他人に愚痴をこぼすことが苦手。

 職場では悩みを抱えた人たちにアドバイスをすることが、彼女の仕事である。


 そんな佳乃が水原綾子にただひとつだけ、悩みを相談した。

 それが本宮勝己に対しての恋心だった。


 水原綾子からみて、佳乃は確実に、本宮勝己と親しくなっているように見える。

 出会いのきっかけは、わざとらしくない、うまいきっかけに乗れたと綾子は思えた。

 佳乃から、詩人サークルと聞いて、難しそうな雰囲気を予想していた。

 実際に佳乃と一緒に参加してみて、自分だって雑誌の記事の原稿を書いているので、それなりに難しい話を聞いても、理解できると思っていた。


 本宮勝己は、一人ぼっちで読書していた結果、かなりこじらせていることがわかった。

 綾子が仕事で原稿を書くのとはまったくちがう視点で、読書をしていることが、彼と話してみてわかった。


 綾子が記事を書く時は、文字数に制限がある。

 読みやすくするための文章のパターンを使い、どうやって内容を整理して、決められた文字数に収めるかを考える。


 もともと綾子は、小説を読むのが好きだった。しかし、純文学の小説、詩、戯曲といった作品は、マニア向けで一定数のファンがいるけれど、どこか古めかしく、敷居が高いものだと感じていた。


「なんだか最近、水原の記事が読みやすくなったわ」


 編集部の編集長から、綾子の提出した記事を読んで、めずらしく誉められた。

 綾子は以前よりも、確かに原稿を仕上げるための時間がかからなくなったとは感じていた。

 具体的にどの言葉や文章が読みやすくなったのかを、編集長は説明してくれたりはしない。


 綾子が編集部で、記事を任された頃は「これ、やり直しなさい、バカ!」と罵声を浴びることもあった。綾子の上司の編集長は女性で、ストレスのかたまりが服を着て歩いているのではないかと思うぐらい気性が荒かった。

 上の階の編集長は、もっとヤバいと綾子は噂を聞いていた。

 上の階は雑誌ではなく書籍関係の編集部で、見た目はいつも笑っていて、落ち着きのある中年男性に見えた。

 それが逆に不気味だった。

 彼に目をつけられたら、休職のみならず、急に出社して来なくなり、連絡がつかなくなるという噂だった。


 給料や福利厚生などの条件がどんなに良くても、もしも上司がヤバい人だったら、それだけで社員生活は憂鬱。しかも、こればっかりは、運を天に任せるしかない。


 水原綾子の入社した頃の雑誌の売上と現在の雑誌の売上は、出版社全体としては低迷している。

 スパルタ上司の叱咤激励は、最近では聞くことはなくなったが、当時はこわかったけれど、今にして思えば、とてもわかりやすかったと綾子は思う。

 それでもパワハラとぼやいている新人社員もいて、綾子に相談してくることがあるが、綾子の新人社員の頃の話を聞かせると、きょとんとした顔になるのは、ちょっとおもしろい。


 人事異動があるので、他の編集部の人たちとのつながりも、綾子にはできている。

 他の編集部でセクハラの相談を受けて、綾子は「貴様、それでもやる気があるのかっ!」ぐらいの罵声を発することもあったスパルタ上司が、職場では女性社員というだけで、仕事とは関係ない価値基準で見られてしまうことが今よりもあったはずで、話の通じない相手に、強気な態度を見せてきたことを実感した。


 綾子は会社で、上司の仕事のやり方に悩む余裕がなかった。

 本宮勝己と話していて、どうも恋愛以外のことに、何か必死になっていて余裕がない人に思えた。

 それがいまいち、何を考えているかわからないところがある。

 肩の力が入りすぎの、恋愛にしか興味がない余裕のない人たちとはちがうのはよくわかる。


 綾子は佳乃の恋を応援しているけれど、本宮勝己の言動から、具体的にどんなアプローチをすればいいか想像できない。


「水原さん、佳乃さんは本宮さんのこと、大好きですよね」

「そうなんだけどね」


 お好み焼きパーティーのあと、帰宅するために一緒のタクシーに乗った綾子と泉美玲は、小声で、タクシーの運転手の視線や聞き耳を気にしながら話している。


「こうしたらいいんじゃないなんて、私がアドバイスしても、自己責任でなんて、気軽に佳乃には言えないわ」

「そうですね。恋って、むずかしいですね」


 泉美玲もどうやら佳乃の恋がとても気になっているらしいと、この夜に、タクシーのなかで話してみて綾子はわかった。


 美少女の美玲が、佳乃と仲良しの綾子に、妬いていることまではわからない。


(水原さんが、私みたいな同性愛者だったらどうしようと思ったけど、親切ないい人なだけでちがうみたい。よかった)


 



 





 

 



 






 




 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る