第42話 TRUE LOVE
水原綾子は、母親の紗夜から過去の恋愛遍歴を打ち明けられた。
翌日、綾子は仕事をしていても頭の中が混乱して、気持ちが仕事に集中できなかった。
水原真という作家が、結婚した紗夜を残して、取材旅行中に海外のスラム街で殺害された。
綾子の戸籍上の父親は、この水原真という人だと、紗夜の話を聞いてわかった。
夫の水原真が取材旅行中に、妻の紗夜がすでに妊娠していて、綾子を出産して、父親のいないシングルマザーになったというなら、頭の中が混乱したりはしない。
伴侶を不慮の事故で亡くしたシングルマザーが、母親ひとりで子供を育て上げたという単純な話ではなかった。
未亡人となった紗夜は、夫と親しかった友人と同棲して、妊娠したことを同棲相手に打ち明けずに家出してしまった。
「私は水原真さんの妻として、子供を産みたかったの」
たしかに同棲した相手と再婚せずに、シングルマザーとして出産すれば、戸籍上では、産まれた綾子は、水原真というルポライターが父親ということになる。
「でも、お母さんと避妊しないでセックスして、妊娠させた人にも責任があるんじゃないの?」
綾子は頭の中が混乱したまま、未亡人の紗夜が最愛の夫を亡くした深い悲しみを抱えていることにつけこんで、慰めるふりをして紗夜の身も心を
「身も心も弄んだというのなら、それは私のほうじゃないかしら」
どういう意味かと綾子が問いただすと、紗夜はさらに綾子が混乱するようなことを話し続けた。
「真さんは同性愛者で、おかあさんと同棲した相手の人に告白したんだけど、ふられたの。真さんは同性愛者だとひどく軽蔑されて馬鹿にされたり、差別される時代だったから悩んでいた。おかあさんは真さんが生きていきやすくなるならと説得して、真さんと結婚することができた。ふられた真さんが海外で行方不明になって、真さんが死亡したことで処理されたあと、おかあさんと同棲してくれた人は、自分が真さんをふったからこうなったのかもとか、真さんと結婚する前から私のことをずっと好きだったけれど、私が真さんを好きなのは気づいていてふられるのがつらくて告白できなかったのを後悔してきたって泣きながら話してくれたの」
「えっと、おかあさんが大好きで結婚した真さんは、男の人が好きな人だったけど、おかあさんと同性愛者なことを隠すために、おかあさんのことを好きじゃないのに入籍した……そういうこと?」
「真さんは、友達としてならおかあさんのことを好きと言ってくれていたし、信用して自分が同性愛者ってことも、私の知ってる共通の友達の男性のことがずっと好きだけど、告白したら避けられたりしないか不安だし、とても悩んでるって、気持ちを隠さずに、全部話してくれた」
同性愛者であることを世間から隠すために、異性の相手と結婚することは行われていた。
しかし、警戒して結婚相手には自分が同性愛者と打ち明けない。
水原真はちがう。
結婚相手の紗夜に対して、正直に、そして誠実であろうとしたのだと、紗夜は今でも信じている。
ふうっ、と綾子はため息をついて、指先で自分のこめかみを押して、しかめっつらになっていた。
混乱して想像が追いつかず、頭痛がしてきた。
「おかあさんと結婚したのに、真さんは別の人に告白した。それは浮気じゃない?」
「今の時代だったら、同性愛者だってことを隠すために、結婚したりしないかも。おかあさんは、真さんが大好きな人と交際できたらいいなって、応援してたんだけどね。まさか、真さんの大好きになった人が、まさか、私のことを愛してたなんて、さすがに、おかあさんも、すごく悩んだわ」
恋愛の三角関係かもしれないけれど、生物学上の綾子の父親は、紗夜のことを愛していて、真さんが海外で失踪したあと、未亡人になってから、セックスをして同棲したということがわかってきた。
(もし、おかあさんが妊娠したって、ちゃんと話して、その人がわかってたら、おかあさんと再婚して、私をちゃんと、自分の子供だって認知してくれたってことじゃない?)
黙り込んだ綾子のそばに、黒猫のカラスが来て、うつむいている顔を見上げると、にゃうにゃ~と話しかけるように鳴いた。
「綾ちゃん、おかあさんのこと、嫌いになっちゃった?」
「……もう、意味がわからない」
綾子はセックスも、結婚も、愛しあっている人が愛情を伝えあうためにすると信じていた。
たしかに、そうではない人もたくさんいるのは、藤田佳乃の社内の恋愛事情を聞いたこともあり、知っている。
そういう人たちを、だらしがないかわいそうな人たちと綾子は考えて、自分の生き方からは関係ない他人事としてとらえていた。
「真さんのことを今でも愛していることも、真さんのことを後悔していて、それでも私のことを愛した人を利用したのも、私のことを愛してくれる人とセックスしてもいいと思ったのも、全部、本当のこと。でも、おかあさんとして、綾ちゃんに軽蔑されてもしょうがないかもね」
「……最低。でも、私、軽蔑なんてしない。嫌いになれない。おかあさんが産んでくれなかったら、私はいないもの」
震える声でそう言った綾子が、顔を両手でおおって泣き始めた。
(ちゃんと伝えられたかわからないけど、これでよかったのよね、真さん。あと、村上くん。私たちの娘は、まじめで優しい人に育ってくれましたよ)
「綾ちゃん、おかあさんの話を聞いてくれてありがとうね。前に、おぼえてないかもしれないけど、綾ちゃんからおとうさんのことを聞かれた時から、ずっと話したかったの。綾ちゃんがいてくれて、おかあさんは、本当に幸せよ」
話しかけながら紗夜も涙ぐみ、綾子の頭と髪をそっと撫でた。
綾子はまだ幼い頃に、保育園に行きたくないとすねた時や、小学生の時にテストの点数が悪かったり、クラスの子から父親がいないことをからかわれたりして、母親に言えずに落ち込んで泣いていた時もあった。
すると同じようにそっと綾子が泣き止むまで、紗夜は優しく撫でてくれたのを思い出した。
紗夜が過去の真さんのつらい恋を思い出すからという理由で、一緒に暮らしていくことを拒まれるように家出され、さらに自分の娘が生まれたことも紗夜から教えてもらえなかった生物学上の父親がいることを、綾子は知った。
その人の名前やどこにいるのかについて、この夜にはもう、紗夜から聞き出す気力は、綾子にはなかった。
そして、綾子は集中しなければならない翌日の仕事中に、なぜか生物学上の父親のことが気になってしまって、気持ちがもやもやしてしまい、とても困った。
それがなぜなのか。
子供の頃に、父親に甘えたかったさびしさが、まだひっそりと綾子の心のなかで隠れていて、癒されないまま放置されていたから。
しかし、綾子にはそれがわからないので、気持ちがもやもやしている。
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