第8話 かさなりあう世界 (前編)
創作について感じていることも交えながら、こうして語っているのは、人が長いあいだ言葉で他人だけてなく、自分自身の心とのコミュニケーションを求めてきたということが関係していると思います。
稲妻や一瞬揮発する命
この漢字だらけの俳句は、とりわけ素晴らしい一句とは私には思えませんでした。
しかし、手書きの勢いのあるしなやかな筆跡で書かれています。
それがこの一句の季語である稲妻と、上五に置かれた「や」という切れ字の感じもあって、私はこの一句に、氷のかけらのような印象を抱きました。
これは天崎虎狼の句で「稲妻」と「一瞬揮発する命」という季語と残り十四音のフレーズの取り合わせで詠まれています。
「一瞬」というのところが季語の「稲妻」の説明的なところがあまり良くない気がいたしますが、季語の「稲妻」は実際に目にした光景、残り十四音のフレーズが心がとらえた「命」の在りかたという感性として考えると「や」という切れ字が、どのように使われているのかわかります。
現実の風景と、心象風景または情景を、切れ字の「や」で間を作り句を切ることで分けているわけです。
取り合わせは、ふたつの素材を取り合わせること。
A+B
ふたつのものを、ぽんと並べて置くだけなんて散文ではあまりしません。会話なら、片言の発言のようになります。
俳句では、一句で切れを多用すると、さらに片言のようなぶつぶつと囁くつぶやきのようになるので、なにやら不気味な感じになります。
ぽんぽんと並べる感じは、絵画で静物と人物をならべて描くような表現といえるでしょう。
取り合わせは、詩だけでなくいろいろなところで使われています。
赤ワインとローストビーフ。
白ワインとクリームチーズ。
おにぎりの白米と塩。
どれに何を取り合わせたら引き立つか、いろいろな可能性がある取り合わせから、ひとつの取り合わせを選び出してきます。
俳句の取り合わせもこれとよく似ています。
自由律俳句ならば、
うしろすがたのしぐれてゆくか
(種田山頭火)
入れものが無い両手で受ける
(尾崎放哉)
ずぶぬれて犬ころ
(住宅顕信)
ひとつの素材を詠んで仕立てた句がほとんど。
これはなになにであるという形。
A=B
これを一物仕立てといいます。
冬菊のまとふはおのがひかりのみ
(
作者の「自句自解」によると
「秋ならば周囲の花のひかりが菊と
と書かれています。
一句がひと続きになって、切れ目なく「の」「は」の助詞によってつなぎ合わされているのが「冬菊」のまっすぐ立っている姿のような一句に思えます。
この句は「冬菊」という物だけを詠んでいるので、一物仕立て。
一物仕立ての句の良さは、一気に読み下せるので、感動もまっすぐ飛び込んでくるようです。
俳句は山から大理石を切り出してきたり、鉱山から鉱石を発掘してくるようなもので、一句の前後には散文であれば説明されるはずの状況などがあります。
俳句がどのような日常の世界の中にあるシーンなのかを補足するために、
前書によって一句の前後に日常の世界があることや、その一句が何があって詠まれたかなど、作者の事情の補足説明になっていることがあります。
短文を添えられることで想像するしかない前後の日常の世界があることを感じてもらうためのサービスでもあるでしょう。
逆に一句から、読者が想像する世界を狭めてしまうこともあります。
一物仕立ては朗々と響きわたるソロ。取り合わせはメロディを奏でるデュエット。
今まで多くの俳句が詠まれてきたけれど、すべての俳句は、一物仕立てか取り合わせのふたつの型のどちらかに分けられます。
短歌や散文詩、さらに小説のほうが読者が読み取る情報がつめこまれているけれど、俳句は読み取るよりも、読者が言葉から想像して寄り添うことで、それぞれの感性の世界を想像して味わうところがあります。
俳句には季語というものが使われます。
自由律俳句では使われないこともあるし、無季の句でも俳句だと感じられる句があります。
広島や卵食う時口ひらく
(
湾曲し火傷し爆心地のマラソン
(
少し極端な内容の俳句で説明いたしますが、読者の想像を強く喚起する「広島」「爆心地」という言葉が、季語や和歌ならば歌枕と同じように働いています。
私たちは言葉を聞いたり、読んだりします。
そして、情報として何を理解するかは、俳句に限らず、一度読まれると、あとはいろいろな解釈にゆだねられることになります。
作者の意図はあるとしても、観賞する側のそれぞれの感性で作品を味わいます。
まず、書き上げることが大切なのですが、書き上げたその直後から、作者から離れたひとつの作品になります。
一番最初の読者は、書き上げた作者自身なのです。
日盛りに蝶のふれ合う音すなり
(
季語が一句の中にふたつ以上入ることを「
うっかり特別な意図なしに季語をふたつ一句に使ってしまうと、 季節感のある感動が集約させにくいことや、一句に演出されているシーンの季節はいつなのか読み取りにくくなりがちなのです。
また、少し手慣れてくると安易に初心のうちは避けるように教えられる「季重なり」や「字余り」を使ってみたくなる反抗期のような気持ちも起こりがちですね。
さて、夏の季語「日盛り」と春の季語「蝶」の「季重なり」のこの一句は、どこに詩としての感性が感じられるかといえば、実際はそんな微かな音は聴こえないはずなのに「ふれ合う音すなり」というフレーズだと思われます。
夏の一番暑い「日盛り」に蝶々が戯れている。翅がふれ合う蝶の姿から音を感じ取った特別なことを書くことで、同時に「日盛り」の静けさが表現されています。
なので、この一句の場合は「日盛り」を主軸の季語として、夏の一句と考えられます。
蝶は、四季を通じているものなので、夏の蝶が舞って戯れているということなのでしょう。
そうですね。たとえば「仔猫」は春の発情期のあとに生まれてくるものとされて春の季語ですが、 冬にも「仔猫」がいて一句に登場させたければ、冬の仔猫とはっきり書いてしまうか「季重なり」で書くか、いっそうのこと「猫」としてしまう方法があります。
「猫」であれば四季を通じているために季語ではないからです。
季語だけでなく、いろいろな言葉には、いくつもの解釈できる意味をふくむものがあります。
俳句はよくものをみて、散文で、なになにがなになにでこうでと説明した散文の言葉の並べかたを離れたあと、季語の言葉の持つイメージを使って、自分の感動を読んだ時に気持ち良いように十七音にしてまとめることはよくわかっていても、実際に詠んでみようとするときはどうやってまとめたらいいのか、誰でも、ええ、もちろん私でも、とまどうものです。
をりとりてはらりとおもきすすきかな
(
すべてひらがなで書かれているので、とてもたおやかな感じがする一句となっています。
エイプリルフールの駅の時計かな
(
エイプリルフールが季語の一句です。
エイプリルフールは万愚節、四月馬鹿とも呼ばれて春の季語となっています。
この日の午前中、ちょっとしたいたずらや嘘をついても許される風習がヨーロッパではあります。
由来は「万聖節」にちなむ対照的な意味合いから、ユダに裏切られたキリストが忘れないようにする日、また一説にはキリストの命日ともいわれているようです。
フランスでは「ポワソン・ダブリル」(四月の魚)と呼ばれて親しまれていますね。
この一句を読むと、駅の時計でもすべて、エイプリルフールの日には信じられなくなってくるような気分になります。
感動を一句に、とよくいわれますが、感性のありかたはそれぞれちがいますし、それがおもしろいところです。
俳句を一句詠んでみると、自分の感性のありかたがあからさまにすっと出てくることもあって、とても驚くことがありますよ。
季語がわからないのは、勉強不足とおっしゃられる努力家な人たちもいらっしゃいますね。
知識としてわかる言葉を、学習しようとしないことを、他人のせいにして、歳時記や辞書を引いてみないのは怠惰だと決めつけることや、誰かを仲間はずれにすることがしたいために俳句をなさっているわけではないでしょう?
恥ずかしいと思いながらも質問してくれた人がおられたら、みなさんが知っていることを話し合って教えあってみたら、新しい発見があるかもしれません。
人はいろいろな体験をして生きています。
そのなかで記憶として強く残ったものが、ひとつの「季語」の言葉として伝えられてきたことに、親近感を感じることもあるでしょう。
忘れていた過去の記憶を鮮やかに思い出すこともあるでしょう。
「季語」の意味やなぜその季節を表現する言葉なのかは、歳時記や辞典や図鑑などの説明文を読むとわかるかもしれません。
その言葉にどんな思い入れがあるのかは、話してみようとすることで言葉になるのではないでしょうか。あと言葉をめぐる世界がさらにひろがるかもしれません。
他人から称賛されることを目的に作品を作りたいと考える人もいるかもしれません。
また、努力の成果を認められて褒められたい人もいるかもしれません。
では、私たちがとても自分の作品の評価が気になるのは、なぜだと思いますか?
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