side fiction /森山猫劇場 第42話


 けがれ。

 古い記録では、古事記にその記述が残されている。


 吾は、いなしこめしこめき穢き国に到りてありけり。かれ、吾は御身のみそぎせん。


 黄泉の国へ渡り生還した伊邪那岐命いざなぎのみことが、禊をしようと考えているという記述である。


 死をおそれる感情、死を連想させるものを穢れと呼んだ。


 この「いなしこめしこめき」というのは、醜悪を意味する形容詞「しこめし」に、さらに強調の接頭語である「いな」をつけて、さらに「しこめ」を二度繰り返して強調している。


 これ以上はない強烈な恐怖であったということなのだろう。


 人は死を恐怖する。

 それは理屈ではなく、純粋な感情なので、なぜ恐怖するのかを説明しようとするのは難しい。


 人は生きているならば、必ず死という終焉しゅうえんを迎える。それは、老若男女、誰にでも平等なものである。


 死の恐怖という感情から、人はどのようにして逃れて、生き残ることができるのか。

 生き残るためにする恐怖の感情の切り替えの方法を、禊と呼ぶこともできる。


 この8月27日の夜に、各地で何が起き始めていたのか。


 蛯原咲凪えびはらさなは、恋愛相手を見つけなければという思い込みがあった。

 そこでマッチングアプリを利用して、自分と同じように恋愛してみたい気が合う人がいれば、交際してみたいと行動してみた。


 そのアプリの利用者のなかに、薬物の常習者ジャンキーがいた。他人を自分と同じ危険な快楽に溺れさせようと狙っていた。

 

 薬物の常習者ジャンキーはキメセク(性的快感を増幅させる媚薬や違法薬物を使用しながら行う性行為)で他人に悪影響を与えながら、死の恐怖をまぎらわせようとしていた。


 マッチングアプリというツールとインターネットが、この二人を出会わせてしまった。

 

 おまつり様、鬼の裔とも呼ばれる術者の芹沢萌せりざわもえは、この二人の関係を断ち切るように干渉した。


 人は、死の恐怖を忘れさせてくれるものに心を奪われてきた。


 芹沢萌は、強い力の術者の宿痾しゅくあのようにある欲情が時には、人との関わりを強く求めるがゆえに、孤独の不安を感じさせるものなのを知っている。

 女性専門のデリバリーヘルス嬢の萌が、お茶っき(昔、遊里で暇な遊女が客に出す茶を挽く仕事をさせられたことからできた言い回し。芸者・遊女・女給などが客がなくて暇でいるという隠語)で世界中で誰も自分のことを愛してくれていないような不安な気分を吹っ切ろうと、直感的に今夜は渋谷にやって来た。


 芹沢萌にとって、薬物の常習者の手から狙われた世間知らずの女性を救助したのは、禊のようなものだった。


 恋愛という親密な他人との関係性を、蛯原咲凪は求めた。

 恋愛ではないが薬物の依存性で他人を自分に従えるという関係性を、薬物の常習者は求めた。

 

 人は死よりも、心のふれあいがない孤独を怖れている。

 

 鬼籍に入った守谷隆信は、その死の直前まで、自分と同じ鬼の裔の葉子と体を重ね続けて、術者と身代わりの贄という上下関係という考え方に囚われていたが、同時に葉子から孤独の不安を緩和してもらって、快楽に溺れていた。


 吉原で起きた殺人事件の犯人である今川瑛人いまがわえいとが孤独をまぎらわすために、蛯原咲凪や薬物の常習者の中年男性と同じマッチングアプリを会員登録して使用することで、同じように入会登録して、自分で客寄せをしていたソープ嬢の吉野愛香と知り合っている。


 古事記の物語では、伊邪那岐命いざなぎのみことが、大火傷をして肉体を損傷して黄泉に堕ちた愛妻である伊邪那美命いざなみのみことを、生きた肉体を持つ世界へ連れ戻そうとして、黄泉の軍勢に追われ、逃げ出すしか生還する手段はなく伊邪那美命いざなみのみこと蘇生そせいに失敗した。

 孤独の悲しみや不安の穢れを伊邪那岐命は感じ、禊をした。

 そのことで天照大御神あまてらすおおみかみ月読尊つくよみのみこと素戔男尊すさのおのみことの三貴神があらわれる。


 人との関わりを求め合う人たちが、ある人は生き残り、またある人は死へ誘われていく。


 祟りとよばれる霊障や怨霊によって人を死へ誘う力と、禊をして生き残る運命をつかみ取る選択する力がある。


 鎌倉にある光崎邸の書斎には、館の主人が、亡霊について考察した記録が残されている。


 人は肉体を失うと自意識と記憶だけの亡霊となる。浮遊霊とも呼ばれる状態である。

 世界に干渉する力が強い亡霊と弱い亡霊が存在する。

 浮遊霊は干渉する力が弱いほど孤独で、存在が消え失せてしまいそうな頼りない不安な気分になるものなのは、降霊術によって意志疎通できた亡霊たちの証言をここに記しておく。


 催眠治療の研究者である精神科医の光崎公彦みつざききみひこは、人は死んでもなお、自意識と記憶が存在する可能性について、医学的には脳死によって存続が不可能とした上で、仮説として人が死んでも自意識や記憶が亡霊となり存在しているという考え方のほうが、実際の医療現場で起きている数多の事例について説明がつくと記している。


 浮遊霊は生者たちから感知されにくい。また、生者の気分などの影響を受けやすいので、できるだけ生者ではなく、似たような気分の亡霊と関係を持つことで、自意識や記憶を存続しようとする。


 世界に干渉する力を、霊力と呼ぶことにして、霊力の強弱を基準として、亡霊のグループを分けて考えることができる。



 書斎で発見した光崎公彦の日記帳に記されたその奇妙な内容を、聡は考えて理解するよりも、魔導書グリモワールに一度丸ごと記憶させて、知識として必要なものだけを感じ取れはいいと判断したのだった。


 術者たちが怨霊と呼ぶ、強い霊障を引き起こすモノは、浮遊霊が組織化されたもので、その浮遊霊の数は三万人以上、リーダーとする亡霊に統率されている。

 この怨霊とよばれる亡霊の集団には、それぞれでテリトリーを持っている。

 そのテリトリーから霊障をうけていると主張する患者を引き離すことで、一時的な治療効果が期待できる。テリトリーは20Km圏内にまで及ぶことがある。

 ただし、患者の恐怖や不安が改善されていない場合や、穢れの強い物や穢れの強い忌み地や禁足地と呼ばれる場所に行き影響を受けると、磁石の磁力が砂場の砂の砂鉄を引き寄せるように、患者の恐怖を感じる亡霊の姿を幻視することや亡霊の声や物音の幻聴だけではなく、触覚、嗅覚、味覚まで影響があらわれた事例がある。


 神社で祓うことができる霊障のケースと、霊力という影響力が強すぎる怨霊や祟り神といったものが引き起こす霊障のケースがあるため、そのテリトリーから逃げ出すしかないことを、光崎公彦の考察から理解することができる。


 テリトリーの拡大、またはテリトリー内の影響力の増大。


 それがこの27日の夜、各地で起こり始めていたのである、

 



 


 


 

 

 

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