第39話 しあわせになってよし

 カフェ「ラパン・アジル」の村上さんは本宮勝己が、恋愛に対して奥手で自信がない若者だと思い込んでいる。


 どうして藤田佳乃から大胆ではないけれど、わかりやくアピールされているのに、どこか時々、冷たいと誤解されそうなごまかしかたをするのか、村上さんは考えていた。


 藤田佳乃は有名な企業の正社員で、本宮勝己は非正規雇用のフリーター。

 交際して結婚することも考えると将来的に生活に不安があるので近年、結婚率が下がっているというニュースのコメンテーターの意見をラジオで聞いて、村上さんは少し考えてみて、それはちがうだろうと思った。

 勝己が非正規雇用のフリーターであることを、佳乃は聞き出してわかった上で、自分の恋心をしっかりとアピールしている。

 

 佳乃ではない他の女性たちに、勝己が恋心を抱いていて、佳乃があきらめるのを期待していることも、村上さんは考えてみた。

 佳乃がアピールし続けているのを、他に勝己が本気で惚れている相手がいるのなら、他の女性に告白したり、交際できるように佳乃のアピールに対応するはずだと村上さんは思う。


 村上さんは見習いの頃に、たしかに将来の生活に自信はなかったのを思い出した。けれど、それが理由で恋する情熱はあきらめて消せないものだった気がする。


(僕は紗夜からしたら、無鉄砲で無責任だったのかもしれないな)


 村上さんは勝己と佳乃のことを考えているうちに、同棲していたのに姿をくらました恋人の気持ちを想像してしまっていた。


 村上さんが開店直後で、ウエイトレスの泉美玲は高校に通学しているので、店に一人でいる来客のない静かな時間。物思いにふけっているそんな雨の日もある。


「村上くん、まだ、ちゃんとこの喫茶店をやってたのね」


 この日、カフェ「ラパン・アジル」に来店したのは、美玲の母親の泉理香ではなかった。

 村上さんは胸がいっぱいになってしまって「うん、まあね」としか返事ができなかった。


「今、私はそれなりに幸せ。あのさ、村上くん、どうして今まで結婚しなかったの?」


 それは紗夜のことが忘れられなかったからだよ、と思わず言いかけて、村上さんは喉から出かかった言葉を飲み込んだ。


「僕がいいって人がいなかった。残念だけどね」


 水原紗夜は村上さんの淹れた珈琲を一口飲んで味わってから、ミルクをたっぷり、あと溶けきる適量の砂糖を入れた。

 それは彼女の若い頃と変わらない癖だった。


 どうしてカフェ「ラパン・アジル」に水原紗夜が来たのか。

 村上さんは彼女が帰ってきて、一緒に喫茶店をしながら暮らすことを、誰にも言わなかったけれど三年間は期待していた。


 三年過ぎても、彼女は村上さんのそばに戻って来なかった。


「僕はね、君がいなくなってからも、ずっと、珈琲を淹れてきたんだ。毎日、変わらないように。君はどうだった?」


まばたきして、深呼吸して……くしゃみもしたわ」


 再会した紗夜は、村上さんの前から去ったあとのことを、村上さんの隣で眠る部屋から理由と同じように答えてはくれなかった。


「だめね、村上くんと会うと、真さんがここに今すぐ、あらわれそうな気がするの。ごめんなさい」


「あやまらなくてもいいよ。僕もそう思った」


 村上さんはそう言って彼女に笑いかけた。一瞬こわばった彼女の表情が消える。そして、村上さんの好きな彼女の微笑が浮かんだ。


「あのね、村上くん。私、あなたにまた会うのがこわかった。あなたは優しいから、出て行った私のことを許してくれるかもしれないけど、私はやっぱり、甘えた自分のことを許せる気がしない。でもね、あの時、あなたが優しくしてくれなかったら、どうなっていたかわからなかった。ありがとうって言いたかった」


「紗夜、何か食べていかないか、あと珈琲、もう一杯どうかな?」


「バイバイ、村上くん。あなたも幸せになってよし!」


 彼女はそう言って会計を済ましたあと、彼女が開けた店の扉の向こう側には、雨が上がったばかりのまだ建物やアスファルトの濡れた街がちらりと見えた。


(幸せになってよし、か。やれやれ。僕なりに幸せなつもりなんだけどな、これでも)


 ずっと忘れられなかった彼女の思い出という本のページがめくれる音が、口紅のちょっぴりついた彼女の飲み残しが少しある珈琲カップを見たとき、村上さんは小さく聞こえた気がした。


「綾ちゃん、ごめーん、口紅勝手にかりちゃった」


 その日の夜、黒猫のカラスを、にやけながら撫でていた綾子の手が、ピタッと止まった。


「ねぇ、あやまれば私が許すと思ってるんでしょ?」


 するとベッドで寝そべっていた綾子のそばに来て、紗夜はベッドに腰を下ろすと、黒猫のカラスを抱き上げて、そっと自分の膝の上に乗せた。


「今日ね、口紅をつけて、お墓参りに行ってきたの。ねぇ、綾ちゃん、おかあさんが誰のお墓参りに行ったのか、聞きたい?」


 綾子はハッとしてベッドから身を起こした。

 指先で撫でられている黒猫のカラスがごろごろと喉を鳴らした。


















 


 


 

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