第75話 転生林檎
成人向けマンガ誌の編集者、河原ひなは、大学生の頃に手書きでイラストを描いて楽しんでいた。
そのまま美大生の姉の雅のような芸術品としての絵画はちょっと無理だとしても、それなりに絵を描く仕事ができるかもと、大学入学したての頃は考えていた。
卒業の頃には、パソコンやタブレットでイラストを描けるソフトやアプリを使う人が増えた。
ひなは、手書きよりも短時間で簡単に出力されるデジタル絵画でイラストを描く人が増えて、絵を描く気力を失った。
自分ぐらいのイラストを描ける人はざらにいる。
河原ひなは、出版社に入社すると、成人向けマンガ誌の編集部に配属された。
最近は女性のマンガ家志望者も増えたから、女性の編集者が対応するほうが仕事がやりやすいかもしれないと社長が考えたらしい。
手書きの原稿を持ち込んでくる人は少なくなった。さらに、タブレットを持ってきて、マンガ以外に、イラストを見せてくる人もいる。他の媒体で公開済みだけども成人向けに手直しをするから、雑誌に掲載してもらいたいと言う人もいる。
原稿を出版社の編集者にあずけてくれた人には原稿料を渡すが、そうでなければ渡せないと説明すると、機嫌を悪くして、つばを床に吐いて帰る人までいる。
イラストレーター志望の大学生の河原ひなは、マンガ家に憧れる人を応援したくて、マンガ誌の編集者になった。
山藤正治が持ち込みに来た時、たまたまその日に男性の編集者がコロナにかかり休んでいたので、ひなが山藤正治の手書き原稿をあずかることになった。
自分はちゃんとイラストが描けるとアピールしたり、あと単行本が出たらどのくらい印税がもらえるのか、と質問してくる掲載希望者と、山藤先輩は明らかにちがっていた。
山藤先輩がサークルの会誌の表紙イラストを頼まれたり、学祭で展示して売れるイラストを描いていたのを、ひなは知っている。
受賞はしたが、どこかで作品を発表して掲載され続けなければ、山藤先輩は、自分がマンガ家であることを世間から忘れられそうな気がするし、自分も忘れてしまいそうで怖いと、後日、図書館のそばの喫茶店「ラパン・アジル」で話を聞いた。
山藤正治の原稿をひなが机の上に置いて、汚さないように白手袋をして考え込んでいた。コロナで休んでいた先輩社員から、そろそろ担当としてマンガ家とやってみろと言われたからだった。
先輩社員はすでに三人のマンガ家の担当をしていて、誰かにちょうど任せたいと思っていたところだったと笑っていた。
女性のマンガ家の持ち込みを任されてはいる上に、マンガ家の担当になるのは、担当するマンガ家が山藤先輩でなかったら、河原ひなは、かなりうんざりしていたところである。
「その原稿、ちょっと見せて」
声をかけてきたのは、エロマンガ家メイプルシロップこと緒川翠だった。
「話がよくまとまってるし、なんか線の勢いがあっていいね」
応接室で椅子にゆったりと腰を下ろして、緒川翠は、山藤正治の原稿をゆっくりと読んでいた。
「たぶんこの人は、マンガを雑誌や本で読んできた人よ。コマ割と見せかたが、最近のデジタルコミックの人はわからない人が多いけど。ページをめくる感じがわからないみたいね。きっと原作者とか原案とかつけてあげたら、今どきの画風でちゃんと長編を描けると思う。まー、最近の子たちは途中で飽きちゃって、続かない人が多いよね~」
ベテランマンガ家の緒川翠の、最近の子たちは続かないという感想を聞いて、たしかにそうだと、堤編集長は思った。
緒川翠は、もう少しで今のオンラインゲームの原案、キャラクターデザイン、ストーリー構成の仕事が落ち着くから「聖戦シャングリ・ラ」のマンガ化をしたいというアイデアを出版社に売り込みに来たところだった。
「えっ、メイプル先生、あれは大手のところでやるんじゃないんですか?」
「スポンサーが、アニメ化か実写化するって騒いでたけどね。でもねぇ、あれは18禁オンラインゲームだから。今はアニメ業界も海外向けのネットの作品とか、大手は劇場版にして、スポンサーの広告代理店とか、グッズ販売とか収益を増やしたいところだけど、ゲームのメインスポンサーが老舗のAV映像製作メーカーのサンダースだから、アニメ製作には撮影よりも進めやすいから賛成みたいなんだけどね。以前に、私のマンガを原作にしたアダルトアニメを出したことあるメーカーだし。ただ、ちょっとね、アニメ製作会社としては、前とちがって内容とかいろいろ変えないと、今はダメみたいな雰囲気があってね」
「で、マンガなら大丈夫だと?」
「たとえば、成人向けじゃない青年マンガも、けっこう性描写があるものが出てるじゃない。原作があるマンガの転生もので、ゲームみたいなファンタジー設定の作品とか」
「うーん、大丈夫ですかね」
堤編集長の心配は、コミックにする時になって、ゲームのスポンサーの企業のサンダースがごねて利益を請求されたりしないかという心配だった。
「AV出演被害防止・救済法案」いわゆる「AV新法」によって制作現場が混乱している。
この法案は、本人の意図に反してアダルトビデオに出演せざるを得なくなった人たちを救済することを目的に作られるもので議員から提案され、2022年6月15日の国会で与野党の賛成多数で可決・成立した。
・契約締結時には、契約書等を交付し、契約内容について説明する義務があります。
・契約してから1ヶ月は撮影してはいけないこと、
撮影時には出演者の安全を確保すること、
撮影や嫌な行為は断ることができること、
公表前に事前に撮影された映像を確認できること、
すべての撮影終了後から4ヶ月は公表してはいけないこと、
これらを義務付けています。
・撮影時に同意していても、公表から1年間(法の施行後2年間は「2年間」)は、性別・年齢を問わず、無条件に契約を解除できます。
・契約がないのに公表されている場合、また契約の取消・解除をした場合は、販売や配信の停止などを請求することができます。
・性犯罪・性暴力被害者のためのワンストップ支援センターで、相談・支援を行います。
(引用元「AV出演被害問題について――内閣府男女共同参画局」より引用)
こうした内容のほかに成人の年齢基準が20歳から18歳に引き下げられたこどで、18歳でも適応される法律である内容が、追加で盛り込まれている。
もともとAV倫理協会など製作会社とは別の組織によって監査されて販売されている作品と、非正規品の映像作品として撮影、流通しているものを、同じものと考えられて法改正されている。
正規品を製作している会社は、それまではなかった契約後1ヶ月の撮影禁止や撮影後に販売の4ヶ月停止などのルールを遵守するため、製作数の低下や女優に渡される報酬額の確定に遅れなどの影響が出て、人気AV女優が引退したりしている状況が起きている。
AV女優を保護する法律のはずが、逆に撮影数が減り、AV女優の収入を下げることになり、廃業する女優が増えていく状況がしばらく続くだろう。
AV映像製作メーカーは製作に規制がかかった状況にあり、その損害を穴埋めするアイデアのひとつとして、老舗AV映像製作メーカー「サンダース」の創始者の初老の男性、風間良和は、まったく遊んだことがないオンラインゲーム業界への参入を決定した。
「ここの社長さんと、サンダースの社長の風間さん、先週、銀座のクラブでお酒を飲みながら、アイドルの写真集ブームの頃はおたがい良かったですな~とか言ってたから、大丈夫よ。あとは、他のマンガ家さんにも資料は提供するから、原案は私ってことで、もしやりたい人がいれば、描いてもらってもいいかも。私は女性の同性愛キャラクターのストーリーしか描かないつもりだから」
オンラインゲーム「聖戦シャングリ・ラ」には、二つのエンディングルートがある。
異世界に召喚された主人公が、人間、獣人、エルフの三種族の覇権争いの中で、それぞれの種族との同盟のきっかけとなっていくというエンディング。
あとは、三種族のはぐれものを集めた混沌の勢力の魔王として主人公が君臨するハーレムエンディングが用意されている。
そしてエンディングまでに登場するキャラクターたちの恋愛関係には、さらに三つのパターンがある。男性と女性、女性と女性、男性と男性。
キャラクターの組み合わせを探し出すことで、シナリオは別の隠しシナリオに分岐していく。
また、戦闘時のアクションやキャラクターの衣装の変化や、特殊効果などが発動する。
「いやー、メイプル先生、そこは男性と女性の恋愛ものや、男性と男性の恋愛ものも、いろいろと描いていただかないと」
堤編集長は、そこはしっかり緒川翠に釘を刺しておいた。
「うーん、堤さん、ガールズラブだけじゃダメ?」
「メイプル先生のせいで、ガールズラブの専門マンガ誌にされたら困りますから」
この日は、さらさらの黒髪のショートヘアに黒いスクエアメガネ、ビジネススーツに白ワイシャツ、黒ストッキングという家庭教師や女医のコスプレ風ファッションで、編集部に訪問したエロマンガ家の緒川翠が、山藤正治の原稿を褒めたので、その読み切り作品は、堤編集長が二回ほど手直しを河原ひなに指示したけれど、無事に掲載された。
その掲載作品をイラストレーターの水原紗夜が見て、マンガ家の山藤正治は、スタジオまかろんのスタッフにスカウトされた。
山藤正治にとって、生活のために描いた作品が。成人向けマンガ誌に掲載になったことで、生き方の流れが変わっていく新たな転機となった。
人との関わりが、一人で悩んでいた時には思いつないような新しい人生の流れへと導いていく。
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