第23話 友達のような親子
端居してただ居る父の恐ろしき
(
雪女郎おそろし父の恋恐ろし (
父を
母とわが髪からみあう秋の櫛
(
恋愛は闘争からの逃避だと鋭き指摘を身に受けていつ
調べより疲れ重たく戻る真夜怒りのごとく生理はじまる
釈放されて帰りしわれの頬を打つ父よあなたこそ
(
愛人でいいのと歌う歌手がいて言ってくれるじゃないのと思う
焼き肉とグラタンが好きという少女よ私はあなたのお父さんが好き
(
交番に肘ついて待つ春ショール
(
家庭の中で父親の存在感があった戦前の1937年(昭和十二年)の高野素十の一句。
ただそこにいるだけで子供にとっては怖い父親像。
親子、とりわけ父親と子供は上下の関係だった。
厳しいかわりに、子供が社会へ出て一人前にするまで育て上げる責任を負う役割を自覚していた。
少年時に父を失っている寺山修司の父恋の句。1975年(昭和五十年)に発表されている。
寺山修司はこの頃には、すでに短歌や演劇、映画などに活動を広げている。父親の不在、母親との密接な関係性がわかりやすい句をここでは紹介しておく。
俵万智の第一歌集の「サラダ記念日」の書籍化は1987年(昭和六十二年)で、1997年(平成九年)に書籍化された「チョコレート革命」は、俵万智の第三歌集。そのなかの俵万智の短歌を二首。
ここでは中村草多男が「雪女郎」の季語にふくめた「愛人」としての恋愛する女性が表現されている。
戦前から終戦、1960年(昭和三十五年)前後の安保闘争、プラザ合意とバブル期、テレビゲームと「ドラゴンクエスト」、1989年の昭和天皇の崩御、サリン事件、バブル崩壊から十年間の景気変動、震災……こうした歴史的な出来事や社会情勢とりわけ景気の変化と、生活している社会における人間関係の変容に、創作される作品はまったく関連性はないとはいい切れない。
Post-traumatic stress disorder(心的外傷後ストレス障害)、終戦後に軍隊で殴られて訓練されて統率されてきた人たちが、戦地から帰還したあと、家庭で、妻や子供を家庭内で殴りつけることはあっただろう。
居るだけで恐ろしい威厳のある父親と子供の関係性が、江戸時代から引き継がれ、戦後の60年代までは引き継がれていたのは、安保闘争を詠んだ作品、たとえば、道浦母都子の短歌からもうかがうことができる。
家庭から父親不在の時間が増えていくことは、徴兵制により戦地へ出陣して、家庭から父親不在になっていたあいだに、母親と子供の密接な関係性を生み出したこともあっただろう。
そのパートナーの夫、子供の父親の家庭からの不在が、戦争ではなく別の競争で家庭から不在になる状況が起きれば、母親と子供の密接な関係性を生み出すことになるだろう。
母性愛を理由に、パートナーの女性に家庭の家事や子供の育児を強制させる常識は、戦時中に同盟国だったドイツから取り入れられた記録がある。
ナチスドイツが1933年に政権を獲得すると
「母よ、家庭に帰れ」
をスローガンとした関連政策を打ち出した。
当時の上級公務員だった女性72人を解雇。さらに結婚奨励法を制定した。女子労働者は退職し、再就職をしないと誓約することで、結婚資金の無利子貸し付けを受けることができ、さらに子を産むたびに返済が免除された。
このナチスドイツの女性に対する政策は、同盟国の日本にも波及した。
1938年設立の愛国児童協会の大会では「母よ家庭に帰れ」運動の実施を宣言。「ヒトラー総統はすでにやっていたのに、われわれ日本人がはじめるのが遅すぎたくらい」と朝日新聞1938年11月16日の夕刊に協会理事のコメントが掲載されている。
日本という国は、諸外国の文化や思想を技術と同時に取り入れ、流用してきた。
良妻賢母という考え方が大政奉還後の新政府から富国強兵と同じように流布されてきた。結婚制度も江戸時代からのやりかたを海外の文化を取り入れて改変した。
だが、戦時中から敗戦までは学徒動員まで行われ、女性も国内の労働者として考えられていった。
まだ敗戦直後は、空襲によってかなりの被害があった。また、出征した男性たちが帰還してくる前の労働者はたしかに少ない。
農家からも戦地に出征させたので食糧の生産力は40%下がり、さらにそれを補う輸入船が撃沈されていて、全国的に食糧不足という状況があった。
戦災の復興と国内の人口増加のながで、戦前の理想とされた良妻賢母という考えかたが戦後になって再び流用されたこともある。
富国強兵の考え方は、世界に誇る日本の技術力といったコピーにも転化されている。
日本は江戸時代から戦後の第一次ベビーブームで生まれた子供たちが結婚して、学生運動の時代のあとの、専業主婦という考えが広まる頃まで、女性パートナーによる共稼ぎは現実に家庭の生活を支えるために行われていた。
明治政府が結婚制度を、海外の制度を参考にして、それまでの江戸時代の身分制を改めて施行した
時に、恋愛という概念が結婚制度に結びつけられた。
江戸時代では結婚は家系を存続するための対策で、恋愛感情とは別物だった。
江戸時代から戦後に法改正されるまで、たとえば不倫は法的な処罰の対象となっていた。
戦後の法改正で、倫理上の問題で民事の賠償となっているが、江戸時代や戦前のような刑法で処罰されたりはしなくなった。
人間を動物と考えてしまえば、生殖して子孫を残すこと、それに快楽がともなうということに従って従順に行動する習性がある。
ところが、食欲、睡眠欲、性欲は三大欲求とされているが、それを満たすために、まだ猿人と呼ばれていて、ホモサピエンス以外の種族がいたが、ホモサピエンス以外の種族を殺害して絶滅させた。
おそらく三大欲求を満たすために行われた残虐性は、ずっと変わらずに受け継がれている。
恋愛感情や逆に疎外する嫌悪感や見栄といった感情は、他の種族を虐殺して、その後に利便性からホモサピエンスの種族の群れを作る習慣が残った。
すると、群れのなかで排斥されずに生き残るための生存戦略として選択してきたことが今でもなお私たちの脳には、習性として残っていると考えられる。
人間の脳は、この群れを作り始めた時期から、基本的には進化していないといわれている。
日本では孝行つまり親を敬うという考え方は、中国の儒教を仏教と同様に、そして漢字を輸入した時に取り入れ、さらに江戸幕府を成立した時に転用され、流布された歴史がある。
それは道徳として、時には都合に合わせて流用され、大政奉還後から戦後まで引き継がれていた。
平安時代も、江戸時代も、そして明治時代も、現代と同じ日本ではなく異なる社会制度や文化の外国と考えたほうがわかりやすいかもしれない。
共通しているのは、変わらない人間の習性があること、そして生存するために群れを作り生き残ってきたことだけだ。
善悪という倫理観だけでなく、この習性というベースは受け継がれて変わらないということをふまえて考えてみれば、異なる制度や別の倫理観がある社会システムの時代であれ、類似する行動の繰り返しを感じ取ることができるだろう。
新政府の結婚保護政策として明治民法が導入された。
婚姻が家制度と家父長制度と結びつけられた。
この時に、男性は仕事、女性が家事と育児という社会的な規範が作られた。
これにより、江戸時代にはあった対等なパートナーシップや、女性の経済的な自立と自由が奪われた。
さらに結婚=女性の就職という位置づけにされたので、結婚しないという選択を選びにくい風潮が作られた。
さらにお見合いという方法が一般化した。戦国時代にお見合いという方法はあったが、庶民は行っていなかった。
明治民法の結婚推進の政策とお見合いが民衆に広まったことで結婚観や家庭の人間関係の変化があった。家長を家庭の責任者とする儒教的な上下関係が導入された。
1920年から1990年までに、生涯未婚率5%前後で推移したので、当時三千万人の日本の人口は、一億人まで人口が増加している。
途中で関東大震災などをふくめ津波、飢饉、不況、戦争の死傷者などがあっても、これだけ人口が増加しているのは、世界的に医学的な進歩もあったのも確かなのだが、江戸時代から明治の新政府による政策と民衆の結婚観の変化も大きな契機となっている。
結婚は大前提として社会的な契約ということ。これは、明治時代の法改正によって確立して導入されていった。
教育現場で体罰養護派の教育方針の教師がいた頃の状況ができあがったのは、民衆に儒教を道徳の規範を転用してきた歴史と、教師が子供の頃に過ごしてきた家庭から学校という職場に、家庭で受けていた体罰の方法を持ち込んだことに原因がある。
努力と忍耐。
父親か母親、または両方から威圧されてきた子供は、二つの方向性の選択をして逃げ込むことで生きのびることになる。
威圧されることは、本能的には不快である。
そしてどうしても折り合いがつかなければ、家出したり、絶望して思いつめてしまい自ら命を断つことすらある。
ひとつ目の選択。
親を尊敬していた場合は、親は叩いてでも自分に教えようとしてくれたと感謝する。そして、叩かれたり威圧されないようにするための努力を始める。
ふたつ目の選択。
憎しみを隠して抱きながら、考えないようにして耐え続けて親から得られる生活の援助を利用し続ける。
そうして生きる選択をした子供が大人になった時に、威圧されなくなった時や子供のうちに威圧できる対象を見つけた時に反動で、自分より下の立場の人を威圧する行動を始めて憂さ晴らしをする。
このどちらなのかは、子供の見た目や行動からはどちらも同じ行動をするために、威圧した親からはわからない。
親もPTSDから、暴力ではなく正しく指導していると思い、また自分の子供には、かつて自分が威圧して服従を強いられた時よりも手加減している認識がある。
家庭内と世間で、家庭内は親が規範になる家族だけのテリトリーと考えられていた風潮もあった。
そうした大人が決めた常識や規範があるなかで、安保闘争が起きた。安保闘争とは1959年から1960年、1970年の二度にわたり、日本で行われた日米新安全保障条約(安保改定)締結に反対する労働者や学生、市民、批准そのものに反対する反政府、反米運動とそれに伴う大規模デモ活動のこと。
再び戦争が起きて身の危険がある前兆と判断した大学生や高校生たちが、大人の政治家たちに対してそれぞれが組織を結成して協力して反抗するという選択をした。
安保条約は、民衆の反対運動があったが、国会で与党のみ賛成する強行採決で可決された。
岸内閣は混乱の責任をとって内閣総辞職を余儀なくされたが、同年の第29回衆議院議員総選挙で自民党は単独過半数を上回る大勝利をした。
70年安保闘争時には、参加していた左翼の分裂や暴力的な抗争の激化があり、また過激派としてテロリストとして警察が取り締まり、この運動は大衆や知識人の支持を失っていった。
歴史学者や歴史物の作家は幕末の動乱期や2・26事件などを、安保闘争の時期に重ねて思い浮かべるかもしれない。
浅間山荘事件では、組織化したメンバーを体罰で見せしめとして粛清したことが報道された。
1970年代に、連合赤軍の前身である日本共産党(革命左派)神奈川県委員会(通称「京浜安保共闘」)および共産主義者同盟赤軍派の両派は、それぞれ連続銀行強盗事件および塚田銃砲店襲撃事件を起こして資金や銃や弾薬を入手し、犯行を繰り返しながら逃走を続けていた。
学生運動は終焉を迎えていた時期で、マスコミ関係者の間でも一部の公安担当記者らを除いては、この両組織の存在すら知られていなかった。
この警察に追い詰められた両派は、合同の連合赤軍を旗揚げして浅間山荘に潜伏。
1971年の年末から「銃による殲滅戦」を行う「共産主義化された革命戦士」になるための「総括」の必要性が、最高幹部の森恒夫や永田洋子によってメンバーに提示される。
仲間内で相手の人格にまで踏み込んだ自己批判と相互批判が次第にエスカレートしていき「総括」に集中させるためとして暴行、極寒の屋外での束縛、絶食の強要などをされた結果、約二ヶ月の間に12名にも及ぶメンバーを殺害し、内部崩壊が進んでいた。
29名のメンバーのうち12人を殺害した体罰は、エスカレートして虐待となっていった事例といえる。
サリン事件の報道が流された時に、かつての連合赤軍という反政府運動組織の事件の報道を思い浮かべた人もいるかもしれない。
家庭、学校、それらが世間から分断された特別なテリトリーとなったあと、大昔のホモサピエンスの群れの残虐性という習性から、エスカレートした暴力で威圧するということが起きていった。
家庭内暴力、非行、学校でのいじめが、それぞれのテリトリーで起こっていることが報道され始めた。
たとえば戸塚ヨットスクール暴行死事件。浅間山荘事件とサリン事件のあいだに起きたこの事件が報道され、体罰養護派の教育方針は非難される風潮となった。
1979年から1982年にかけて、訓練中の訓練生の死亡、行方不明事件が複数発生した。
家庭内暴力、学校では非行が問題にされ、その対策として注目を浴びたあとの事件の発覚。
2006年4月29日、満期で戸塚ヨットスクール設立者の戸塚宏が静岡刑務所を出所。
戸塚宏は記者会見で「体罰は教育。正しい教育論がないから教育荒廃が起こる」などと持論を述べている。
報道された情報は整理されて伝えられている。それは、同時進行している長い影響が起きる風潮を作りだすこともある。
この物語のナレーターであるKSは、1986年5月27日に発売された「ドラゴンクエスト」をふくむゲームブームが子供の頃にあったことを覚えている。
家庭内の人間関係の変化のひとつとして、子供たちはゲームという遊びを手に入れた。
親友の兄弟は両親がいない時間を兄弟でファミリーコンピューターを共有して遊んでいた。
セーブデータの書き取りをまちがえた兄弟が喧嘩していたのを懐かしく思い出す。
「ドラゴンクエスト」は「スーパーマリオブラザース」よりも友人に「なっ、楽しいだろ?」と言われても、正直、あまり楽しくなかった。
「ドラゴンクエスト」は一人用のロールプレイングゲーム。
うしろでながめていても、鳥山明デザインのモンスターの絵はとてもかわいかったけども、友人と一緒に遊んでいる感じはなかったからだ。
ただそこにいるだけで怖い父親は関係を変えた。
友達のような親子は上下関係ではなく対等の関係。
たがいに深入りしない、じゃまに思えない家族の関係を快適だと思って生活してきたとすると、恋愛はどうも苦手で……と言い出すのも、少しだが理解できる。
恋愛することで起きてくる、干渉したりされたりすることに慣れていないまま、大人になったとしたら、恋愛している状況は、快適ではないだろう。
幸せ=快適、という考え方は誰かに威圧されて、時に干渉されすぎて不快という状況ならば、たしかにそうだといえる。
男性と女性とでは、恋愛観に別の物語があるとしても、幸福=快適という感性に対応する物語はあるのだろうか?
不快な状況や困難な状況にぶつかり、時には協力者に助けられながら、どうするのかを決断していく物語の求める幸福=快適が、おたがいの無関心と不干渉なのだとしたら。
永遠に旅を続けるロードムービーのような、孤独の旅の物語に帰着することになるだろう。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます