第73話 サウダージ

 河原雅は、恋愛をこじらせてしまっていた。

 彼女が愛しているのは、妹のひなだからである。

 父親が再婚して家族になった二歳下の女の子、それが妹のひな。


 雅が絵を描いたのは、妹をよろこばせたかったから。

 ひなの父親は、前方不注意で信号無視の車に轢き逃げされて、通勤中の交通事故で亡くなった。

 ひなが亡くなった父親のことを思い出して泣くと、小学生の雅は悲しむ妹のひなの気を紛らわせるために、いろいろな絵を描いてみせた。


 ひなの母親と雅の父親は、高校の同窓会で再会して恋に落ちた。

 雅の母親は、雅がまだ二歳の時に癌で亡くなっている。

 ひなが大学に入学すると、製薬会社の研究員の父親は妻だけを連れ、娘たちを日本へ残して、アメリカに移住した。


 雅が美術展で入賞した絵画の裸婦像は、雅とひなが背中合わせで立っている作品で、タイトルはタロットカードから【The Lovers】とつけた。


 ひなに自分のヌードを撮影してもらった。また、高校生のひなにヌードになってもらって描き上げた。描かれた二人の人物は、ひなと雅の特徴を合成したような感じで、顔立ちかそっくりな双子のように描かれている。

 作品制作のために、河原家の別荘に宿泊して、雅はひなと二人っきりで夏の一ヶ月間を満喫した。


 雅は自分が同性愛者で、さらに妹のひなしか恋愛対象に思えないことを、女子高に通っていた時に自覚した。

 雅の通っていた伝統のあるいわゆる名門女子高では、カップルのハグや頭をなでなで、手を握り合うぐらいまでは、当たり前の日常の光景。

 雅はそういうことをしても、胸がときめくのは、妹のひなにだけだった。

 

 マンガ家のメイプルシロップというペンネームの緒川翠おがわみどりは、女性の同性愛者の恋愛や性欲を描きたいと、自選初期短編集のあとがきに記している。

 その繊細な画風とは真逆のような大胆さで、女性の同性愛者を支援すると彼女は発言することをはばからない。


 雅は自分にはそれができなかった、かなわないと思った。画家としての代表作【The Lovers】で伝えたかったのは、自分が女性でありながら、女性でも妹だけしか愛せないことの全肯定。しかし、妹には一人の人間としえ自由であってほしいという矛盾も、背中合わせの実在しない女性たちの姿で描いたつもりだった。

 背中合わせだけれど、後ろ手で手をつないでいる偽物の自画像と妹のひなの自画像。

 なんて未練がましいことか、と自分でも呆れてしまった。


 姉が美術展で入選後、他の作品を描いては途中で放棄して悩んでいるのがなぜか、河原ひなは理解できていたわけではなかった。

 ただし、スランプらしいことはわかる。河原ひなは、姉は自分に対して、過保護な傾向があるぐらいにしか感じていなかった。


 姉の才能はすごい、自慢のお姉ちゃんだと、河原ひなは思っている。人気イラストレーターの水原紗夜の制作スタジオでもきっと活躍できると河原ひなは、マンガ家の山藤正治と自慢の画家の姉である雅を、スタッフを募集中の水原紗夜に推薦した。


 水原紗夜は、美術館に展示されている雅の絵画を見て、この作品は同性愛がテーマだと感じ取ることができた。

 描かれた人物たちの肌の色使いがとても繊細で美しい。二人の女性たちの認識のちがいが、肌に当たるの光の加減で色が微妙にちがうように描き分けられている。


 水原紗夜は雅に、妹のひなさんから「私の姉なら素晴らしい仕事ができるはずです」と言われたことや、入選した【The Lovers】を見て、一緒に仕事したいと思ったことを話した。


「ああ、あの絵を見たのですね。では、よろしくお願いします」


 雅はこうしてスタジオまかろんのスタッフになった。入社してCGの知識を学ばなければならなかったが、それもまた楽しかった。

 毎日、一つずつできることが増えていくのは楽しい。


 水原紗夜の色指定の指示に、この色ではおかしいので、と意見して、確かに見比べてみれば、雅の選んだ色使いのほうが良いことがよくあった。紗夜もこの若い画家の女性から学ぶことがある。


 スタッフのチーフの近藤喜久はそんな時は、少しドキドキしてしまう。水原紗夜がもし、その色使いに強いこだわりがあったとしたら、雅と意見が対立するのではないかと心配になる。


「俺、紗夜先生って、ちょっとすごいと思う。自分が描いたイラストでも、指摘されたパターンがいいと思ったら迷わず、手直しできるんだから」


 自分の作品をアシスタントから指摘されたら、マンガ家が素直に手直しできるか、またアシスタントが意見できる雰囲気の現場をマンガ家が作れるのか、そんなふうに考えると、このスタジオは少数精鋭だからそれができるのかもしれないと、めずらしく、チーフの近藤喜久に、マンガ家のアシスタント経験がある山藤正治は、この職場の感想を言った。


 新人スタッフの樹と望に、雅が他の男性スタッフに対するよりもかなり優しい態度なのは、チーフの近藤喜久とスタッフの山藤正治も感じることがある。

 しかし、それは雅が、男性の体よりも女性の体のほうが、理屈抜きで美しいと感じる感性の持ち主だからだとは気づかなかった。


 樹と望の性別が男性だと見抜ける人はめったにいない。


 何に嫌悪感を感じたり、美しさや好印象を抱くのかを、自分で説明できる人はあまりいない。


 雅は自分の好き嫌いをはっきりとよく自覚している。

 そして、妥協したりごまかしたりすると、自分の心に嘘をつくことになることも知っている。


 他人に嘘をつくよりも、自分に嘘をつくことに慣れてしまうほうが、いろいろなことがわからくなってしまう。それが怖いと雅は思っている。


 妹のひなが惚れている山藤正治は、かわいい新人スタッフの樹や望に、でれでれしている雰囲気はない。

 雅は山藤正治に対して、そこは少し感心した。


 山藤正治は苦労しているマンガ家なので、男性だとか、女性だとかは一切関係なく、残酷なほどシビアに作品は峻別しゅんべつされることを実感していた。

 そこは、画家の雅も感じていることだった。


 チーフの近藤喜久にも、過去にゲーム制作会社で働いた経験から身についている峻別される不安の感覚がある。


 スタジオまかろんのなかで、世間から峻別されることの不安にあまりとらわれていないのは、イラストレーターの水原紗夜だった。


 その時できることよく考えて、ひたすら一生懸命できることをやってみることしかできない。 

 水原紗夜は、パートナーだった水原真の生き方から、そう感じるようになっていた。


 

 


 

 


 

 





 

 



 









 

 

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