第72話 悲しみは雪のように

 山藤正治やまふじしょうじは、スタジオまかろんのスタッフには内緒で、デビューした時とは別のペンネームを使って成人向けの作品を執筆していた。


 スタジオまかろんでは、基本的にいつもジーンズにブランドのTシャツ。季節の寒暖に合わせて、Tシャツの上にデニムシャツを羽織ってみたり、ジャケットなどを着る。

 髪型は黒髪のコンマヘアのバングマッシュ。これは流行りの髪型でと注文した結果で、彼自身のこだわりがあるわけではない。

 中肉中背で、特別に目立つ顔立ちではないがブサイクでもない。

 ちょっとぽっちゃりとした体格で、温厚そうな素朴な雰囲気の30代の近藤チーフほど、彼には優しげな安心感はない。むしろ、少し頼りない感じもある。


 マンガ家としてデビューしたいと、安定した給料のもらえるそれなりに有名な企業に就職する将来を期待している両親に、彼は言えなかった。

 大学の漫画研究部というサークルに入って、絶対にデビューすると初めの飲み会で宣言した時、サークルのメンバーは少し困ったような表情で顔を見合せた。

 彼とはちがって、好きな作品を話題にして雑談したい趣味の同好会の雰囲気のサークルだったからである。


 大学三年になった頃、少年誌の新人賞の佳作に入選した。そのあとは、編集者と打ち合わせして作品の手直しや、編集者から紹介されたマンガ家のアシスタントをしていた。

 スタジオまかろんの水原紗夜と知り合い、スカウトされるまで、先が見えない不安に、マンガを諦めるか悩んでいた。


 スタジオまかろんのチーフの近藤喜久の想像しているように、順風満帆といった感じではない。

 少年誌では読み切りが一度だけ掲載されただけで、自分で他の出版社に持ち込みをして、成人向けのマンガ誌でたまに掲載されるぐらいで、収入はスタジオまかろんでの給料がなければ暮らしていけない状況だった。


 山藤正治を担当している成人向けのマンガ誌の編集者は、河原ひな。彼女は山藤正治と同じ大学のサークルにいた後輩にあたる。

 彼女は、スタジオまかろんの同僚の河原雅かわはらみやびの妹である。


 山藤正治が大学三年の時、サークルに顔を出さずに持ち込み用の原稿を執筆していた。作品のアイデアを集めるだけでも、けっこう時間がかかる。

 昼食時は混みあっているが、午後、講義中の時間なので人のいない食堂スペースで、山藤正治は読書やノートにアイデアをメモしていた。

 しかめっつらで、アイデアをノートに書きなぐっている山藤正治に、サークルの後輩の河原ひなは緊張しながら声をかけた。


「山藤先輩、もう、漫研に戻ってこないんですか?」

「……俺、でかいこと言ったくせに、賞、取れなかったから」

「いいじゃないですか、戻ってくれば。先輩が頑張ってるのを、馬鹿にできる人なんていません!」

「無理だよ。でも、俺も諦めきれないから、一人で、もう一度だけやってみるつもりだよ」


(先輩、みんなと楽しくやっているだけじゃ、ダメなんですか?)


 河原ひなは、学食から立ち去る山藤正治の後ろ姿を見ながら、泣きたいような気持ちになった。

 その日の夜はとても寒く、静かに雪が降った。


 山藤正治は、入部した時に絶対に在学中に受賞すると二回応募して、失敗していた。

 3回目の挑戦は別の出版社に持ち込んだ。その時は後で噂で聞いたが、大賞作品はなし、山藤正治が佳作入選できたのは、応募数がたまたま少なかった状況だったからだったらしい。


 佳作入選したが、そのあと編集会議に通らず、他のマンガ家のアシスタントをしてみないかと紹介された。

 絵が上手くなると言われたこともある。山藤正治は大学卒業してフリーターになっていた。

 飲食店のアルバイトや、工場勤務のアルバイトよりも、アシスタントのほうが、まだやりたいことに近い気がしたからだ。

 そこで、山藤正治は成人向けの雑誌は、読み切りの作品を買い取ってくれるという噂を聞いた。


 後輩の河原ひなと、成人向けのマンガ誌の出版社で再会した。後輩の河原ひなは、出版社に就職していた。


「拝見させていただきます」


 河原ひなは、黙って山藤正治の原稿に目を通していた。緊張しただけでなく、大学生の頃に少年誌向けに描いていた内容とは、かなりかけ離れているのが、恥ずかしかった。


「とりあえず、少ないですが原稿料としてこちらを。編集会議で掲載が決まれば、また別に原稿料を用意させていただきます」


 河原ひなは、その作品が良いか悪いかの評価は口にしなかった。

 他の成人向けのマンガの作品から、見よう見まねで山藤正治が描いた作品を、編集者の河原ひなは受け取った。

 そして、出版社のルールに従って、彼に五千円札が一枚入った封筒を手渡した。


 河原ひなと再会して、あの時サークルに戻って雑談しながら、気軽に作品を描いて応募して、卒業に合わせてどこかに就職することで、すっかり足を洗っていたら、こんなにみじめな思いをしないで済んだのかのかと思えてきて、夕方、帰りの電車の中で、座席に座ってうつむいていると、涙がこぼれた。


 山藤正治にも、そんな苦い経験がある。スタジオまかろんに入社したのは、成人向けマンガ誌でたまたま掲載されていた山藤正治の作品を、水原紗夜が見かけたからだった。

 とにかく、今どきの画風のかわいらしい絵と、マンガの内容がとてもバランスがいい。


 水原紗夜が出版社に連絡して、河原ひなから山藤正治の連絡先を聞いてスカウトした。

 河原ひなから、水原紗夜は山藤正治のついでに、川原雅を紹介された。雅の色使いのセンスが抜群だと、すぐに水原紗夜は気づいて採用した。

 こうして山藤正治が1ヶ月ほど先に採用され、河原雅とほぼ同期で入社した。


 スタジオまかろんのチーフ、近藤喜久は、山藤正治と河原雅が交際していると思い込んでいる。


 山藤正治と交際したがっているのは河原雅の妹、河原ひな。

 雪の夜に、一人暮らしの部屋で降り始めた雪を見ながら、山藤正治のことが好きだと自分の恋心に気づいた。

 しかし、山藤正治が卒業するタイミングで彼女は告白する勇気が出せなかった。

 憧れの山藤正治と編集者として再会した時、まだこの人はマンガを描いていると知って、やっぱり素敵な人だと思った。


 ひなが心配して、山藤正治は放っておくとマンガのことしか考えていない人だと言うので、妹が大好きすぎる姉の雅が、山藤正治の日常の様子を観察して、妹のひなに報告している。







 


 

 



 



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