★第20話 パートナーシップ
「ラパン・アジル」で村上さんの所持している同人誌を、創作に興味を持ち始めた泉美玲という少女は読んだ。
村上さんが、絶対にこいつは作家として生きていくと思っていた若い人物がいた。
美玲はその人物が書いたエッセイを読んで、創作の発想を練り上げていった。
美玲は別れてしまった歳上の恋人とのことや自分の恋を、どうやって作品にできるかと、ひそかに考え続けていた。
母親に誘われて俳句講座に参加した時に提出した一句には、美玲と「
美玲はのちに小説を執筆する。
Web小説として公開して、のちに、書籍化され人気作家となる。
「日本のヴァージニア・ウルフ」と批評家から評され、また自らの同性愛を赤裸々に綴った自伝的な小説は、熱烈なファンの読者がついた。
美玲は執筆活動の他に、大学から招かれて、文学に関する講演を行った。
本人は講演中に「官能小説を書いたつもりだった」と本音を明かしているが、生徒たちはそれを美人作家のリップサービスの発言と思っていた。
高校生になった美玲が、メイド服を持ち込んで「この黒髪メイドのコスプレをして働きたいです」と交渉されて、村上さんはちょっと困った。
村上さんの頭のなかに、メイド服を着た美玲のイメージがなかったからだ。
私服の上に、単色のシンプルなエプロン着用という、村上さんと同じ服装で、ウエイトレスの美玲もかまわないと思い込んでいた。
「それじゃ、まるでメイド喫茶みたいじゃないか……」と眉をひそめた。
メイド喫茶のような接客サービスは、要求されても絶対にしないという約束を、美玲としっかりと交わして、村上さんは、美玲の思いつきを許可した。
美玲にとって憧れていた「瑞希さん」に近づきたい思いも消えておらず、それでも彼女ができなかったことをして生きてみたいという気持ちがあった。
美玲は黒髪のショートカット。
これは黒髪をストレートのロングヘアーにしていた「瑞希さん」の面影を、美玲がずっと忘れられずにいるからである。
そして、ショートカットのさらさらとした髪を「瑞希さん」に褒められたのが、まだ思い出にできてはいないからだ。
美玲の成績なら、地元の高校ではなく、もっと進学率の良い私立高校も受験できた。
教師に志望校を変える気はないかと美玲は何度も言われた。
しかし、美玲には「瑞希さん」と同じ高校の制服を着て三年間をすごすという目標があった。
教師には「絶対に合格できる高校がいい」と言い張って、あえて地元の高校を受験した。
村上さんのなかには「ラパン・アジル」の最初のウエイトレスの思い出がある。
美玲がポニーテールにして、エプロン姿で働いてくれたらと、村上さんは口には出せないが、内心ではそう思っている。
「いらっしゃいませ」
平日の夕方に来店したのは、建築家の天崎悠である。
美玲のメイドコスプレの接客を受けた最初のお客様である。
「村上さん、ラパン・アジルもはやりのメイド喫茶を始めたの?」
「そうじゃないよ。クラブハウスサンドでいいのかな?」
カウンター席で、村上さんと天崎悠は話しながら、ちらちらと美玲の様子を見ていた。
美玲は空きテーブルを拭き上げたりしながら、てきぱきとウエイトレスの仕事をこなしている。
天崎悠がリクエストして村上さんが珈琲を淹れている間に、サリフ・ケータの「Afrca」という歌が軽快に店内に流れ出した。
美玲は天崎悠のおかげで、今まで自分では興味を持つことがなかったミュージシャンたちの曲を、ウエイトレスの仕事をこなしながら聴いていた。
美玲がクラブハウスサンドを用意して、カウンターの天崎悠の前に「おまたせしました」と置く。
食べ終えて、天崎悠が帰っていったあと、美玲は店内に流れていた曲が営業中、ずっと耳に残って気になっていた。
閉店後にサリフ・ケータというミュージシャンについて、村上さんに教えてもらった。
生まれついた肌の色で差別されることを経験して、差別は音楽には関係ないと、歌うことで世界に示し続けたミュージシャンだと。
ラパン・アジルで美玲が働いていた期間は、それまで知らなかったことを感じ、考えることができた人生のなかで、とても貴重な時間だった。
土曜日か日曜日になると、詩人サークルのメンバーの誰が、ラパン・アジルへ訪れる。
先代からのこだわりで、ラパン・アジルは、アルコールをビールですら提供しない。
他のところで、酒を飲んできた人が、珈琲を一杯だけ飲んで帰っていくこともある。
酒を提供すれば客は増える。しかし、そうなると、すっかり客層が変わってしまう。
珈琲一杯のためにわざわざ来店してくれる人たちは、カフェから離れていく。
天崎悠に美玲は話しかけずらいと感じていた。
また、天崎悠も美玲に自分から話しかけたりしない。
「美玲ちゃん、またホットケーキを食べに来たよ~」
「あ、僕もホットケーキを」
「私は紅茶で」
水原さんの紅茶は村上さんではなく、美玲が淹れる。
詩人サークルの三人のうち、いつも笑顔で話しかけてくる佳乃。
おとなしい村上さんみたいな口調のキョウさん。
そして、いつも紅茶を注文する水原さん。
天崎悠はこの三人が来店していると、カウンターではなく、テーブル席で、必ずキョウさんの隣に着席する。水原さんがいない場合でも、天崎悠は、キョウさんの隣に着席する。
「ねぇ、美玲ちゃんも、あたしたちと一緒にサークルに入ろうよ」
「あの……私、ラパン・アジルのアルバイトがありますから」
「うわー、コロさーん、美玲ちゃんにふられちゃったぁ」
普段は無愛想な雰囲気のある天崎悠が、佳乃さんの頭を苦笑して優しく撫でていた。
美玲は、歳上の天崎悠を「コロさん」と呼ぶまでに、二年近くかかった。
美玲は「瑞希さん」との恋の経験を、大学生と社会人との関係に変えて、どこに投稿するあてもないまま一人で書き続けた。
「瑞希さん」との恋を、自分のなかで、過去のものにするための儀式みたいな気持ちで執筆した。
「瑞希さん」の経験したつらい体験はそのままに、見た目や口調は水原さんをモデルにして、美玲は、デビュー作を官能小説のつもりで書き上げた。
二十五歳。出会った頃の水原さんと同じ年齢になって、美玲は作家として大学生たちの前で講演しながら、デビュー作の小説のことを思い出していた。
美玲がノートに手書きで書き上げた清書前の小説を、村上さんが最初に読んだ。
村上さんは夕方から店を臨時休店にして、美玲の小説を何度もため息をつきながら読み続けた。
「読ませてくれて、ありがとう」
村上さんは美玲にノートを手渡してそう言った時、目に涙をためていた。
「美玲ちゃんは、同人誌を読んで気になる人がいると僕に話したことがあったね」
「はい……
「彼が生きていれば僕より少し若いけれど、彼は僕の心のなかで、ずっと二十五歳のままなんだよ」
すっかり外は夜になり、しとしと降る秋の雨音が、店内まで聞こえていた。
村上さんは美玲に、まだ「池上珈琲店」だった頃、村上さんより先に働いていたウエイトレスの女性がいた話から、懺悔する人のように話し始めた。
村上さんは話し終えたあと、ビートルズの「Let it be」を店内に流した。
「僕ら三人は、この曲がとても好きだった」
この夜、美玲は村上さんの淹れてくれたカフェ・オ・レの味と、この夜に聴いた「Let it be」のメロディと歌声を、一生忘れたくないと思った。
残されていた手帳の手記によってアルゼンチンの首都ブエノスアイレスまでは、水原真の旅の足取りはわかった。
「池上珈琲店」が閉店して翌年に、旅に出ていた水原真の訃報を日本で水原真の帰国を待つ人たちは知った。
首都ブエノスアイレス市および周辺都市には、ビジャと呼ばれるスラム街が点在している。
ビジャ内部や周辺では、銃器を用いた殺人、強盗など凶悪犯罪が多発している。
水原真はスラム街に足を踏み入れたらしい。そして強盗に金品と命を奪われた。さらに、車で轢かれて顔を潰されていた。
旅の記録が記された手帳が残されていた。それが遺体となった彼の身元を明らかにしてくれた。
村上さんは、水原真に告白された。しかし、村上さんは、一緒に「池上珈琲店」で働いていた女性に恋をしていた。
皮肉なことに、村上さんが恋していた女性は、水原真から自分は同性愛者だと告げられた。
恋愛対象ではないと断られても、水原真に協力するので、そばにいさせて欲しいと交渉した。
「あなたが、同性愛者だということを隠すために協力する。私と結婚して欲しい」
水原真の葬儀に、彼女は来なかった。正確にはつらすぎて部屋に引きこもって出られなかった。
「僕が彼を殺してしまった。僕が彼を受け入れていれば、彼は、旅に出ることはなかっただろう」
村上さんは彼女の住んでいた部屋を訪ねて、彼女が衰弱しきっている姿を見てしまった。とても胸が痛かった。
眠れず、食べず、泣き続けて、目の下にくまができている彼女の表情は「池上珈琲店の看板娘」の明るい笑顔からは遠くかけ離れていて、まるで別人のようだった。
「そっか……真さんが愛していたのは、あなただったのね」
「僕を君は恨んでいい。僕が彼を拒絶して、殺してしまったようなものだから」
村上さんもそれ以上、彼女の部屋にいられないと感じて立ち上がると、彼女はうつむいて目を伏せたまま、ぎゅっと痛いぐらい強く村上さんの手首をつかんだ。
「行かないで……私をひとりにしないで」
美玲は、悲しみのあまり衰弱しきった女性の姿と、別れる直前に美玲が見た「瑞希さん」の痛ましい姿を思い出してしまい、重ねてしまった。
「傷を舐めあうように、というけれど、僕らはもう、何も話さないで、泣きながら抱きあっていた。そうして、僕らは生き残ることを選んだ」
水原真の葬儀から一年後、村上さんはカフェ「ラパン・アジル」を開店した。
その時、もう村上さんのそばに「池上珈琲店の看板娘」はいなかった。
「彼女は、僕と一緒に暮らしていた部屋から何も言わずに居なくなってしまった。もしかしたら、彼女は、ブエノスアイレスに行ったのかもしれない」
同性愛者であることを世間から隠すために、異性の協力者と結婚することもある。
また、異性のパートナーに同性愛者であることを隠して、セックスレスの関係の夫婦として世間の目をごまかしていることもある。
同性愛者だと周囲に発覚すると、蔑まれ社会的な信用を差別されて失うことが、当たり前の世間の風潮があった。
「美玲ちゃん、僕は、君が同性愛者だとしても、差別するつもりはないよ。僕にちゃんと打ち明けてくれて、感謝している」
美玲は水原真という人が村上さんと生きていこうとした頃の日本の社会の状況と何も根本的には変わっていないと感じた。
自分の執筆した小説を通じて、読んでくれた世間の人たちの考えかたを、どのようなものに変えてゆけるのか。
美玲は黙って村上さんの若い頃の恋の思い出を聞きながら考えていた。
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結婚すると、認められていることがいくつかある。
配偶者と子(実子・養子)の共同親権を持てる。
配偶者が死亡した場合、相続や年金の受給などができる。
所得税・相続税の配偶者控除が受けられる。
医療費控除の際に医療費の合算ができる。
病院の面会時に家族、親族として扱われる。
」配偶者が外国人の場合、在留資格を得ることができる、また一定期間の居住など条件を満たすと帰化できる。
公営住宅に二人で入居できる。
保険金の受取人を配偶者にすることができる。
離婚した場合、財産分与や年金分割、慰謝料請求ができる。
結婚した夫婦には、こうしたことなどか認められている。
政府はずっと、結婚は男性と女性の「異性」間でするものであると主張してきた。
ただし配偶者を「異性に限る」と明文化した法律は存在しない。
現在、戸籍の性別が同じふたりの婚姻届は「不適法」として受理されない。
民法や戸籍法において使われてきた「夫婦」という言葉の表現は男性と女性による婚姻を前提としているから、というのが理由とされている。
政府は、2018年5月に閣議決定した答弁書では
「民法や戸籍法において【夫婦】とは、婚姻の当事者である男である夫及び女である妻を意味しており、同性婚をしようとする者の婚姻の届け出を受理することはできない」
としている。
つまり、事実上、日本での同性婚は認められていない。
自治体が、同性カップルを婚姻に相当する関係と認証する「パートナーシップ制度」が2015年の11月に、東京都渋谷区では「条例」、世田谷区では「要綱」として施行された。
さらに、東京都の小池都知事は2021年12月7日に行われた都議会において、パートナーシップ制度を都全体で導入することを発表し、2022年11月からは「東京都パートナーシップ宣誓制度」が創設された。
こうした動きが、全国の地方自治体には広がりつつある。
「パートナーシップ制度」は、地方自治体が、戸籍上は同性であるカップルに対して、二人の「パートナーシップ」が婚姻と同等であると承認し、自治体独自の証明書を発行することで、公営住宅への入居が認められたり、病院で面会時に家族として扱ってもらえたりという一定の効力を期待できるようになる制度のことである。
「パートナーシップ制度」は、自治体が独自で認めている制度になるため、制度を活用するためには、両者が同じ地域に住んでいることが条件になる。
さらに、転出した場合は効力を失うことになるため、転出先の自治体でも制度があるのか、事前に確認する必要がある。
また「パートナーシップ制度」が「条例」なのか「要綱」なのかのちがいがある。この制度を導入した地方自治体全体でも、そこが統一されていない制度である。
「条例」であれば、法規としての拘束力を持つ。
「要綱」は行政機関内部における内規であって、法規としての性質を持たない。
水原真が村上さんに「君と一緒に生きていきたい」と恋心を告白した頃にはまだ「パートナーシップ制度」すら、日本には存在していなかった。
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