第62話 恋(星野源)
もしも「結婚を前提におつき合いさせていただいています」と挨拶に行き、相手の父親から熱い緑茶をかけられたとしたら――。
本宮勝己は、普段は着ないスーツ姿で鏡の前で、おかしなところはないかチェックしている。
たとえば、びょんと一本、鼻毛が飛び出していたら、どんなに気合いを入れても相手からは信頼されない気がする。
藤田陽翔の邸宅は、高い壁や防犯カメラなども多く据えられている。藤知会の若頭の邸宅は、組長の邸宅を譲り受けたもの。
組長は、佳乃の話によると、高級マンションなどを、居場所がわからないように移動して暮らしているらしい。
太平洋の景観がよく見える別荘地にある。
駅から、タクシーの運転手はひどく緊張している。
後部座席の乗客二人はヤクザには見えない。
地味な紺色のスーツに白いシャツに革靴の若い男性は、面接に行く大学生みたいに見える。
その隣にいる淡い色のブラウスに薄化粧のこちらのスーツ姿の若い女性は出勤する会社員のような感じだが、緊張している男性を笑顔で小声で話しかけて、優しく気づかっているようにも見える。
このタクシーの運転手は去年、他県の五年務めたタクシー会社から、今の会社に移ってきた。
行き先の住所を言われて、別荘地だなと思いながらカーナビに入力して検索するまでは、いつも通りの気分だった。
「あ、運転手さん、そこを右に曲がって下さい」
「え、あ……はいっ!」
自分でも返事の声が裏返ったのがわかった。
この辺はいいところで、海がきれいでしょう。港のそばの市場で朝市が週末は開かれていて、一般の人も買えるし、そこの食堂では買った魚を調理して出してくれるんですよ。
別荘地に来る客に話しかける定番の雑談トークが、首を絞められたみたいに緊張した運転手は話せない。
カーナビの道順だと、表門側に到着すると気づいた佳乃が、裏口側にタクシーが到着するように、道順を指示する。
「君が本宮勝己くんか。わざわざ遠くまで来てもらって、悪かったね。明後日は出張で、今日しか空いてなかったからな」
「いえ、こちらこそ、本日はお忙しいところ、お時間をいただきありがとうございます」
「ねぇ、パパ、ちゃんとお土産、届いた?」
「ああ、ちゃんとみんなに配っておいたよ」
痩せてはいるが、体は鍛え上げられて、胸板の厚い目つきの鋭い舎弟の男性が、佳乃に軽く会釈をする。
この舎弟、本格的なボクシング経験者である。さらに海外でキックボクシングを習得している。
見た目からしてかなり強い。
「本宮くん、こいつは警備員がわりの身内の者だから、あまり気にしなくてもいい」
舎弟は勝己にも会釈をして、また直立不動に戻った。
舎弟を見て、まるでロボットみたいな人だと勝己は思ったが、急いでその考えを打ち消した。
佳乃は前もって舎弟たちにも、ラスクを予約して、邸宅へごっそり送っていた。
「ここのバームクーヘンが俺が好きなのは、佳乃から聞いたんだろうな。君は、このバームクーヘンを食べてみたか?」
「いえ、食べたことはないです」
「ははは、君はとても正直なやつみたいだな。こういう時は、おいしかったですぐらいは嘘でも言ったほうが得だぞ。自分の食べたことのないものを人に贈るのか、とか言われないように」
そう言って、陽翔がちらりと佳乃の表情を確認する。
佳乃の笑顔が消えているので、陽翔は肩をすくめて、応接間で待っていてくれと、勝己ではなく佳乃に話しかけた。
別荘地の豪華な洋館。
外壁や門、庭は以前の日本家屋だった頃のものを維持して残している。
応接間のソファーにアルマーニのスーツ姿の陽翔が、優雅に足を組んで座っている。
陽翔が応接間に来るまでに一時間以上、勝己と佳乃は陽翔から、わざと待たされていた。
アンティーク調のテーブルに、湯飲みに緑茶が三人分、舎弟が運んできて退室した。
「お嬢さんと結婚を前提におつきあいさせていただき……え?」
熱い緑茶を、陽翔にいきなり顔面にばしゃりとされた勝己が、驚いて瞬きを繰り返している。
「……残念だが娘は、うわっ!」
ドアを開けて護衛の舎弟が室内へかけ込んできた。
陽翔は熱い緑茶まみれの顔を左手で覆ったまま、腕をのばした右手を舎弟に広げている。
ふーふーと怒り、興奮して立ち上がっている佳乃の手には、中身が空になった湯飲みがまだ握られている。
その湯飲みまで、陽翔に投げつけようとしている佳乃を勝己は、佳乃の華奢な手首をつかんで止めた。
「おい、山崎、他言無用だぞ。大丈夫だから下がれ」
舎弟が退室すると、陽翔がこらえきれなくなって笑い出した。
「はははっ、まいった、佳乃が葵とそっくり同じことをするとは思わなかったぞ。勝己くん、気が強い佳乃だが、よろしく頼む……ははははっ!」
葵は佳乃の産みの母親。
父親の組長に、怒った葵は緑茶をかけて、動揺した陽翔の手をつかんで立たせると、和室の障子を派手に鳴らして開いて廊下へ連れ出した。
その話を聞いていた勝己が静かにうなずいた。
「悪いな、若い頃の葵の話をすると、しんみりした気分になっちまうんだ」
「パパ……ありがと……」
こうして、勝己と佳乃の交際が陽翔に許された。
勝己が緑茶を顔にかけられて、取り乱したり、怒って陽翔に文句をつけていたとしたら、佳乃を守って亡くなってしまった母親の葵の話を、勝己は陽翔に聞かせてもらえることはなかっただろう。
「俺は今夜、出かけるから、二人とも泊まって、港の朝市にでも行ってくればいい。あそこの魚は新鮮で、すごくうまいぞ」
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