第16話 水槽の魚たち(2)

 「不易流行」と「温故知新」という言葉があって、同じ意味に思っている人もいるかもしれない。

 古い考えかた、新しい考えかた、どちらも両方が大切ということでは一致している。

 しかし「温故知新」は古い考えを再認識することで、新しい考えを得るということ。

 「不易流行」は古い考えかたとはまったく別の考えを取り入れることで、どちらにも通じている新しい考えに到達すること。


 常識だと考えていることは、その考えかたを疑うこと必要ないと信じている信念のこと。

 信念は実は「不易」ではなく、むしろ「流行」。

 その人が人生をすごした時代の状況や関わってきた人たちから学んで、選んできた経験則の蓄積からできている。


 言葉の役割は、もともと集団生活の中で自己主張をして、自分の生命の安全を確保するために他人に情報提供したり、疎外されていないことを確認するための有効な手段だった。

 本能としての習性はある。それは恋愛感情にもつながってくるものだ。


 子供の時に、親か、そばにいた大人が話すのを否定せずによく聞いて対応してくれていると、人と話すことにこわさを感じない。

 親も忙しく、学校での成績のことは聞いてくれるが、あとは自分から話しかけても他の話題は大人から受け流されていると、話しかけても意味はないと子供は記憶してしまう。

 すると別の集団生活の場である学校で、自己アピールする他の子供がいると、ごちゃごちゃたくさん話して嫌な奴だ、自分語りが気持ち悪いと嫌悪感を感じて、親に自分がされているように否定したり仲間外れにしたりして黙らせようとする。


 すると、家庭では話せる子供でも他の場では、話していい相手と話してはいけない相手を選別して対応するように学んでいく。


 さらに授業でも発言して対話するよりも、教師の説明を聴くことを教えられる。受け身で情報を与えられることに慣れていく。

 家庭でも対話がなく、テレビ番組や映画などで情報を受け身で見ていても、画面のむこうの相手とは対話して得られる共感はない。


 育っている家庭や学校での人間関係の対話量の違いで、コミュニケーション能力が抑制されている子供が、社会に出て仕事や恋愛などで、自己主張して意見を求められた時に、乗り越えなければならない壁にふさがれることがある。


 それまでの経験則とは異なる行動や発言を求められて、うまく対応できないと、相手から敬遠されることが続いた場合、相手との対話ではなく想像で、相手の思考や感情を推測することになる。


 他人の人格をデフォルメし、自分の分かりやすい辻褄の合うストーリーに当てはめて、相手との対話よりも自分の想像したイメージで処理していく癖ができていく。


 相手に想像しやすい分かりやすさを求めてしまうようになると、相手からの情報提供されたことから物事を考えるのが当たり前だと思うようになる。

 相手からの情報が、正解か、不正解か。

 集団のなかで価値があり、自分にとって役立つものか、不要なものか。

 その判断ができることが自分の魅力だと考えていると、相手に自分の意見を伝えようとすれば、相手は考えかたを押しつけられたと感じるだろう。


 相手が受け身で、自分の意見を受け入れてくれているかどうか。その上下関係の基準で、つきあっていく人間関係を選んでいくことになっていく。


見渡せば花も紅葉もなかりけり浦野と苫屋の秋の夕暮れ

(藤原定家)


 想像して作り出した相手の人格や上下関係のストーリーの縛りが解けた一瞬こそ、不意に心の共鳴が起こる。


 フランスの哲学者、アンリ・ベルクソンは〈笑い)が「機械的なこわばり」を破壊し、それに対比される生命が持つ柔軟性や流動性の中に戻す働きをする、と述べている。


「機械的なこわばり」を対話の時のぎこちなさに当てはめて考えてみる。

 何かを発言するとしたら、しっかり完成されてまとめてあるものを相手へ提供しなければいけないと考えてしまう。

 または、肯定か否定かをはっきり発言しなければならないという考えが強いと、緊張やあせりも生まれてくる。

 相手が黙っている時の間は、何かを話さなければならない不安を感じる。

 そうした安心感とはかけ離れた感情のゆらぎや、相手から嫌われないか心配して、即興の思いつきの考えや今、感じている曖昧な気分について発言できない。


 こうしたことは、本人もふくめ、コミュニケーション能力の問題として考えがちである。


 相手へ配慮していることや、自分が相手よりも優位な立場になろうとしていないことを、挨拶や対話する相手に対する言葉の選び方で説明しなくても伝えられるのが礼儀作法というものだった。


細雪妻に言葉を待たれをり

石田波郷いしだはきょう


 石田波郷は昭和二十年(1945年)に疎開していた埼玉の農家の庭坂でラジオから流れる昭和天皇の声を聞いた。

 昭和十八年の秋に召集されて中国北部に渡ったが、のちに結核となる胸の病気が発症したので、昭和二十年の一月に日本に送還されている。翌年の昭和二十一年一月、疎開先の埼玉から妻と二歳の長男を連れて上京。ひとまず下町の葛西に住む、空襲で焼け残った妻の兄の家の二階に落ち着いた。

 親子三人、焼け野原になった東京でどうやってくらしていけばいいのか。妻も降り続けている雪をぼんやり眺めているように見える。

「妻に言葉を待たれをり」

 波郷は妻に何か言ってやらなければと切羽つまった気持ちだけを取り出して一句にしている。

 戦争も、病気も、焼け野原の東京で親子三人で仮住まいしていることも、すべての事情を説明しないで言葉のむこうへ置いた。

細雪ささめゆき」という季語と「妻に言葉を待たれをり」と二つ並べて詠んだ。

 音もなくひたすら降りしきる「細雪」を、「不易」なる自然から取り出してきた。

 「細雪」という言葉だけでは、細かく降りしきる雪が浮かび上がるだけ。

 「妻に言葉を待たれをり」というフレーズだけでも、妻がいて夫が何か話し始めるのを待っているらしいという曖昧な状況説明にすぎない。

 ところが、どちらも切れの間を置いてこの二つの言葉が取り合わされることで、夫と妻の抜き差しならぬ切実な気持ちや切なさや痛みを持つひとつの句になる。


 まったく異なる言葉と言葉の取り合わせによってしか伝えられないものがある。それを可能にしているのが、切れの間ということになる。


 「細雪」のように、と直喩で説明するのとはちがう雰囲気の暗喩の表現である。

 波郷のこうした一句をながめてみれば、俳句は使われる言葉の内容によって伝えるというよりは、言葉と言葉の関係で伝えるものだと感じる。


 私たちは本能として、人と何かで関わろうとする。そんな生存本能がある。

 家族、社会、いろいろな人間関係で、それぞれの状況の中をひとりひとり異なる思いを抱えて生きている。

 そのそれぞれのちがいがあることに不安を感じるかもしれない。

 物事の考えかたや感じ取りかたは育てられ、過ごしてきた人間関係のやりとりから、模倣したり、反発したりして、学んでいく。

 それは子供だけでなはなく、大人も同じなのだが、そのことを忘れている。


 とはいえ、対話のコツがつかめていないと感じてつらいのは、家庭や学校の状況のせいと決めつけることは安直すぎる考えと言わざる得ない。

 また、会話してみて気が合わないと感じているときも、言葉を使って人との関係性で優位に立つことで自尊心を守ろうとしていないか注意してみる必要がある。


 会話している相手の口にする言葉やためらう様子には、説明されることはないけれど、その目の前にいる人の過去の人間関係が深い影響を与えている。


はつきりしない人ね茄子なす投げるわよ

(川上弘美)


 共感やコミュニケーション能力をどうやって補うかについて、会話の方法といったタイトルのつけられている自己啓発関連の書籍は書店に多く並べられている。

 需要と供給。悩みを解決する方法を求めて本を購入する人がそれだけ多くいるということ。

 だが、よく考えてみると、この言葉やフレーズを言われたら、こう返答すればうまくいくという文例にしたがって人が会話しているとしたら、そこには礼儀作法による安全は感じられるかもしれないけれど、そこには深い共感が生まれる余地はない。


 恋愛の相手に甲斐性、生活を保証してくれる経済力があることに優先順位を置く人もいる。または高収入で安定した職業についていることを自信の根拠にしている人もいる。

 それは小さな集落をつくり、そこから狩猟に出かけて、とらえた獲物を集落で暮らす全員で分け合っていた頃から、もしかすると結婚という儀式ができる以前から続いている考えかたかもしれない。

 コストパフォーマンス重視のわかりやすさである。または、想像しやすいわかりやすさを求め続けているからだろう。


 「資本論」を書いた社会学者のカール・マルクスに、こんな言葉がある。


私は醜い男である。しかし、私は自分のために最も美しい女性を買うことができる。だから、私は醜くない。というのも醜さの作用、人をしてぞっとさせるその力は、貨幣によって無効にされているからだ。

(カール・マルクス)


「この言葉だけを引用すると、恋愛は人の売買ではないのに、と嫌な気分になる人もいるかもしれないので、もうひとつだけ。


人間を人間として、また世界に対する人間の関係として前提してみたまえ。そうすると、君は愛をただ愛とだけ、信頼をただ信頼とだけ、交換できるのだ。

(カール・マルクス)


 私たちは、社会というひとつの水槽の中で暮らしている魚だと考えてみよう。

 水が濾過されていなければ、水は汚れていく。また水草や酸素をおくるポンプがなければ水中の酸素は少ない状態になってしまう。

 過密になるほど魚が入れられた小さな水槽。

 自然を尊いと崇拝するのは、金銭を尊いと崇拝するようなもの。

 社会で生活して生きていくために必要なものではあるにせよ、それ以上でも以下でもない。システムを維持するための装置のようなものともいえる。

 自尊心の高い人ほど、わかりやすい想像されたストーリーに寄りかかっていて、本能的に他人を疎外してしまうのは、過密な状態の水槽で縄張り意識の強い種類の魚が本能的に攻撃して、他の魚の背鰭せびれ尾鰭おびれをついばみボロボロにして弱らせてしまうのと似ている。


秋風や模様のちがふ皿二つ

(原 石鼎せきてい


 この句だけでは秋風に吹かれている二枚の皿を描写しているだけ句のように読める。

 この石鼎の句にはこんな前書きがつけられている。


父母のあたたかきふところにさへ入ることをせぬ放浪の子は、伯州米子に去って仮の宿をなす


 石鼎の両親は石鼎が医者になってあとを継いでくれることを望んだが、石鼎は従わず、京都の医学専門学校を中退して放浪の身となった。

 この前書きがつくと「模様のちがふ皿」がすれちがう人の気持ちの比喩のように思えてくる。

 俳句に作者の前書きがつけられることによって、言葉やフレーズそのものではなく、作者という人物の気持ちを詠んだものという雰囲気を伝えさせる効果がある。


 詩句や詩歌が作者ひとりの嘆きや気持ちを詠んだものということがリアリティーという虚構を生み出してきた。

 だが「不易」なるものと思い込んでいる想像に縛られているひとりの考えから、一瞬でも解き放たれる表現があらわれるとき、作者の個性は、読者の個性と共感される。


 その感動は作者だけてなく、読者の心を自由にするヒントをひとつ与えるだろう。



――水原 真 (みずはらまこと)「水槽の魚たち」より抜粋





























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