第29話 ワンダーチャイルド
人の記憶というものは、現在と過去という時間差を、忘却というもので認識している。
普段は忘れていても、ふとした何かしらのきっかけによって、忘却されていたはずの記憶とセットになっていた感情だけがよみがえってくることがある。
なんでそんな感情が起きてくるのかはわからない。何がきっかけになったのかも気づいていない人も多い。
記憶のすべてがよみがえってくるのであれば、過去に体験したある事柄と、セットになったその瞬間に感じていた感情を思い出しているから、今の感情はこうなったのだと分析して整理できる。
しかし、記憶の一部は、忘却によって欠落している。
記憶をよみがえらせるきっかけ「引き金=トリガー」がある。
過去のすべての記憶がよみがえってくるわけではない。
過去の記憶と過去の瞬間の感情は、弾薬と弾丸のようにセットになっている。
忘却は記憶する瞬間から始まっている。そのため、欠落した記憶の部分は感情が補充されていく。
感情そのものは、過去と現在というちがいが存在しない。
インナーチャイルド、という医学用語を引用して説明した記憶の仕組みからわかることは、現在に私たちが感じる感情は、過去に感じた感情がよみがえったものと考えることができる。
私たちは過去に感じた感情を、記憶の仕組みによってよみがえらせながら、脳という器官が機能停止するまで繰り返している。
インナーチャイルドを分かりやすく説明するために、過去の記憶とセットになっている感情のうちの、9種類の強い感情のパターンを紹介しておく。
【インナーチャイルド 9つのパターン】
1 ロストラブ
2 ニゲーション
3 エクステクペーション
4 アビアランス
5 シークレット
6 ディスライク
7 ヘルパー
8 インダルジ
9 ディスペンデンスパーソン
感情の癖が、考え方に影響を与える。考え方は、言動に影響を与える。言動は習慣や生き方の癖に関係している。
心理学でのインナーチャイルドとは簡単に言えば「自分の心の内側に子供がいる」というように見立てる考え方のこと。
自分の心のなかに自覚していない子供などいるはずがないとむきになって反論せずに、こうした考え方のツールが世の中にはあるぐらいの気持ちで考えてほしい。
幼い頃に、心が傷ついた経験から、心の中の世界に生まれた副人格が、インナーチャイルド。
これは子供時代の自分の記憶そのものというよりも、その時に受けた感情を抱えたまま、大人になった自分の心の中の世界で、今も息吹いている分身のようなもの。
インナーチャイルドは別名、ロストチャイルドとも呼ばれる。心の中で迷子になっているキャラクター。
チャイルドがいる心のなかの世界を、想像すらしないために気づかない私たちは、チャイルドの存在に気づくはずもない。
長い時間、大人になるまでずっと忘れて去られているため、チャイルドたちは傷を深め、落胆し、時には怒りすら持って生き続けている。
その迷子を発見して、癒やすセラピーがある。
神話や童話、ゲームシナリオなどでもおなじみの宝探しの物語。
私たちは迷子を捜し出し、分身を救いに行く心の旅にいつでも出発することができる。
想像することさえできれば。
心理学のアプローチなら、イメージ療法として、インナーチャイルドの気持ちを思い浮かべる方法や、退行催眠などの方法がある。
トランス状態の中で意識を過去に退行させていくとき、過去の傷ついた体験の記憶を思い出すことがある。
また、睡眠中の夢でチャイルドに出会うこともある。
チャイルドたちが大人になってしまった自分自身、まだ子供のままの自分の分身の存在に気づき、探し出してくれるのを心待ちにしているということ。
心の傷を負わせたのは私たち自身ではない。しかし、その時の感情を忘れ去り、置き去りにしてきたのは、まぎれもなく大人になった自分にちがいない。
そして、その分身を生んだのも自分自身なのである。
自分の心のなかに、忘れ去った分身を探しに行くのを想像することは、まるでファンタジーそのものである。
インナーチャイルド、または、ロストチャイルドを想像してみることで出会い、その分身の心の傷を癒やすことができれば、大人になった自分の心も癒される。
癒された新しいチャイルドのことをワンダーチャイルドという。
人は誰でも一度は心が傷ついた経験をしている。心が傷つかずに生きて大人になれた人はいない。
心の受けたダメージを鮮明な記憶を忘却することで、ダメージのつらさを持続する危機から逃れることができた。
危機から逃れられなかった人は絶望しきって、生きる気力を維持できない。
気力というものは、機械の燃料のように消尽していくものだと知らない人は意外と多い。
バーンアウトシンドローム。日本では燃え尽き症候群と呼ばれ、それまで意欲を持ってひとつのことに没頭していた人が、あたかも燃え尽きたかのように意欲をなくし、社会的に適応できなくなってしまう状態のこと。
極度のストレス状況に、人はどこまで耐えきれるのか。耐えきれなくなった時には、バーンアウトシンドロームや、さらに鬱などの気力の消尽したことが自覚できる状態になる。
社会的に適応できない状況になるほどではなくても、気力という目に見えない心による意欲を維持するためには、どこで何に気力を使っているかを知っている必要がある。
アメリカのフロリダ州立大学・社会心理学部の教授ロイ・バウマイスターが行った人の気力に関するこんな実験がある。
ロイ・バウマイスター教授は、焼いたクッキーの香りがする部屋に空腹の学生たちを入れ、2つのグループに分けた。
クッキー食べ放題のグループ。
ラディッシュしか食べたらダメという制限があって我慢するグループ。
その後、両方のグループ全員で部屋を移動し、難しいパズルを解く作業をしてもらった。
すると、パズルにチャレンジしていられた時間に、グループごとで差が出ることが判明した。
クッキー食べ放題のグループの学生は平均20分。
ラディッシュだけの我慢していたグループの学生は平均8分。
この意欲の継続時間の差はなぜ起きたのか。
クッキーの香りで、クッキーを食べる気が満々やったのに、ラディッシュしか食べられず我慢したチームの学生は、我慢するために気力を使った。
その気力の消耗分だけ、次の作業にチャレンジしていられる時間が減った。
気力は、無限のエネルギーではない。有限の使えば消耗していくエネルギーである。
バーンアウトシンドロームの発生の過程にも、段階がある。
何が人の気力を消尽させていくのか。人かストレス状況に陥る時に、どんな考え方と気持ちになって気力が奪われていくのかは説明できる。
バーンアウトシンドロームは、アメリカの精神心理学者ハーバート・フロイデンバーガーが、1970年代に提唱した概念。
人が行動すると、原因帰属という想像を働かせて、結果の原因を分析して整理する。
4つの要素。それが自分の外部か内部か、一時的なものか継続的なものか、という4つの要素をベースとする。
自分の外部で一時的なものが原因であると分析すれば、運の結果だと結論づける。
自分の外部で継続的なものが原因であると分析すれば、難易度の結果だと結論づける。
自分の内部で一時的なものが原因であると考えれば、努力の結果だと結論づける。
しかし、自分の内部で継続的なものが原因と考えたとき、自分の能力の結果だと結論づけてしまうため、その後に強いストレスを感じやすい。
困難な状況に遭遇する。
その困難が自分では対処できないと認知する。
その原因を原因帰属の想像による分析によって、自分の内部の継続的なもので能力が原因と帰属させる。
同じ困難な状況は将来的にも対処できないと予想する。
学習的な無力感に陥ることで、強いストレスを受ける。
こうした無力感を何度も経験しているうちに、内部つまり自分のせいで継続的にずっと対処できないと考える癖ができあがる。
困難な出来事は、内部の要因と外部の要因がどちらもあり、そして、そのタイミングが一致した再現できない一回しか起こらない特別な状況。
しかし、原因帰属の考え方で、全部自分のせいで対処できないと自信を喪失し続けていると、まったく別の日常の状況でも、自信が喪失しているために、またどうせうまくいかないと考える思考のパターンができあがる。
あるひとつの出来事、ひとつの状況が、最後の特別な機会で、同じ条件が同じタイミングで起きることが一生のうちにもうありえないという、原因帰属という想像のベースが崩れてしまう考え方を知ると、能力、努力、難易度、運の原因があって、また何度でも同じような状況を起こしたり、結果をコントロールして自分にとって最も良い対処ができるという願望は持つことができなくなる。
人が行動する時の動機は、わかりやすく一言でまとめるなら
「おかしい」
「こんなはずはない」
といった単純な願望である。
自分の生きている状況に対しての素朴な疑問。そして最も良い状況としてコントロールしたり、不安を解消したいという願望。
単純で明確な動機でしか、人は行動できない。
現状に「おかしい」と哀しみという感情で問題提起する。
怒りで、または情熱で問題解決の方法や手段を悩んで、やがて分析や整理して考える。
達成していく過程を実感することで喜びを感じ、行動を継続していく。
楽しいという反動で、楽しくない現状に対し、哀しみを感じる。
喜怒哀楽の感情で、状況をとらえ直し生きていく。
なぜ哀しいか、私たちは知って納得していたら「どうして」と疑問すら抱かない。
たとえ話では説明しきれないところは必ずあるものなので、ニュアンスを拾って集めていくような感じで、とりあえず読んでもらえたらいい。
インナーチャイルドとワンダーチャイルド。
どちらも私たちが想像して、心のなかという世界にいる自分の分身という設定のキャラクター。
人間とは欠陥だらけの生き物だと絶望して、何も考えなくなったバーンアウトシンドロームの無力感。それは成功体験の積み重ねによって、獲得する自信を喪失した結果の自己肯定感の低さという説明では、ずれが生じてしまう。
ホモサピエンスというのは自己肯定感が低い種族であったために単独ではなく群れを作って、今でも人数を実感しきれないほどの社会を形成している。
欠陥だらけなので、悩みや不満はみんな抱えている。
自己肯定感が日本人より高いといわれている文化圏のアメリカ人と比較してみれば、アメリカ人の多くは日曜日には礼拝して神に祈り、また分厚い聖書を何度も開いて読み返している。
心の不安に対応するフィクションを求め続けているのは、ホモサピエンスという種族でどの文化圏であれ共通している。
不安があるということが、ホモサピエンスという種族に喜怒哀楽という感情でとらえ直し、状況に対応する行動をする想像力につながっている。
心のなかの世界というフィクション。インナーチャイルドとワンダーチャイルドというキャラクター。
不安を感じるのは、インナーチャイルドという分身のキャラクターが、過去の体験の哀しみから同じように心が傷ついている。
この世界の状況は「おかしい」と問題提起し続けてている心のなかのキャラクターを想像してみると、どんな感情が不安を感じさせているのか、不安を感じた時に、自分がどんな考え方や対応をするのかを想像しやすくなる。
私たちは創作されたフィクションの作品の登場人物たちに、自分のインナーチャイルドを探し出している。
たとえば主人公が誰か明確な書かれ方をされておらず、明確に行動していく強い感情の起伏の動機がなく、不安を解消する目的を達成する展開が停滞すると、書き手と読者のどちらも興味を失う。
インナーチャイルドが不安を解消して、さらに物語の世界で生きていく。また主人公がいなくなったときに、他の登場人物がその役割を引き継いでいかないと、やはり興味を失う。
インナーチャイルドがワンダーチャイルドに変化して、今の自分の世界の感じ方やとらえかたを変えることになっていく過程があっても、分身ではないと思えたり、あまりに想定外で嫌悪感を感じる展開や状況があれば、嘘くさいと興味を失う。
それは読者だけではなく、書き手も同じ。
インナーチャイルドの9つのパターンは、心理学のセラピーだけでなく、創作された多くの作品のなかに存在している。
+++++++
「そうね、マンガだと、ページ数が少ないとき、主人公とヒロイン以外を細かく描写すると、ちょっとわかりにくい感じよね」
生まれついてのエロマンガ家と自称するメイプルシロップこと
本宮勝己と彼女は対談後に、のんびり雑談している。
彼女は月虹学園というエスカレーター式の名門私立の高等部で、講師をした経験がある。
本宮勝己がライトノベルを執筆し始めた頃に、必死に書き続ける努力していて、いろいろな知識をすがるように学んていたので、編集部のコネで月虹学園で行われたマンガ家メイプルシロップの講義を生徒にまざって聴講していた。
(まあねぇ、私もデビューしたあと好きなものが売れないと決めつけられて、企画が通らなかったから、むきになって描き続けたところもあるかも)
マンガ家のメイプルシロップこと緒川翠は、レズビアンの恋愛ものを描き続けたいためにマンガ家を続けている女性である。
見た目は華奢で小柄、彼女にハードな仕事をこなしている体力がどこにあるのか、本宮勝己はこの大先輩に会うたびに思う。
彼女の繊細なタッチの画風は、多くのファンがいる。たとえ同性愛であってもなくても、彼女は恋愛ものを描いているつもりで、それでセックスシーンがある必然性があると思えば、売れる売れないは関係なく描く癖がある。
「猫くんのその持論なら、作品のヒロインも猫くんの分身だったり願望がしっかり入ってるってことだよね。ふふっ、かわいい女の子のイラストは、私にまかせときなさい」
そう言われて、彼女に肩をぽんぽんと叩かれた。
本宮勝己は赤面した。
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