第66話 MISS BRAND-NEW DAY(ミス・ブランニュー・デイ )

怪物と闘う者は、その過程で自らが怪物と化さぬよう心せよ。

おまえが長く深淵を覗くならば、深淵もまた等しくおまえを見返すのだ。

(善悪の彼岸/ニーチェ)


 私は特別な人になりたかった。 

 だから、詩を書いていた。


 大学を中退した私は一年ほど、何もする気力が起きなかった。


 田舎ではめずらしく有名な国立大学に自分の娘が入学したと、私の父は、自分の知り合いたちにかなり自慢していたと母から聞いていたので、私は田舎の実家に戻ることを選べなかった。


 和田教授から「僕に抱かれるぐらいの覚悟はあるか?」と言われたと他の学部の助教授に相談したが、取りあってもらえなかった。

 論文ではなく、詩で単位をもらえると考えるほうがおかしい。

 たまに他の学部でも教授から単位をもらえるなら、何でもしますという学生はいるらしい。

 和田教授から、そう言われるような普段からの思わせ振りな素行があったのではないか?

 そう言われても、私からすれば論文を書くよりも、散文詩を書くほうが、時間も手間もかかっている。和田教授は、これは散文詩ではなくむしろ、小説のほうが近いとアドバイスはしてくれた。


「また作品を書いたら、読んでいただけますか?」

「かまわないけどね。その前に夏目漱石の夢十夜というのがあるから一読することを、僕はおすすめするね。あと泉鏡花の作品も」


 私は自分の書いたものが、散文詩よりも短編小説に近いと、有名な文芸批評家から感想を聞かされて、小説家になれると浮かれてしまった。

 三回ほど和田教授に作品を読んでもらって、作品を手直しすることができた。

 一人称一元描写だった文体を、アドバイスにしたがって、三人称一元描写に手直しをしてみた。

 また、思わせぶりなほど、登場人物がなぜそんな行動をしたのかを、最後まで説明しないように隠した。


「君の詩の感想を聞きたいか?」 


 私はすっかり散文詩から小説にアレンジできたものと自信があったにもかかわらず、和田教授からまた「詩」と言われて、ショックを受けていた。


 和田教授から小説だとおすすめされた夏目漱石の「夢十夜」や泉鏡花の「朱日記」は、私には詩のように思えた。

 何度も読み返さなければ、使われた言葉の比喩がストーリーに影響していくのをつかめなかった。だけど、それがわかってくると、仕掛けがわかった感じがして、自分にも小説が書ける気がした。


 和田教授にほめられたい。それが私の作品を書く目的に変わっていった。大学に通うのも、和田教授から教えられたいと思って通うようになっていった。

 私を認めてもらいたい。他の学生たちよりも特別扱いしてもらいたい。

 私はたぶん自分の父よりも歳上の和田教授に傾倒して、はまってしまっていた。

 まるでラブレターを書いて持って大学に行っているような気分だった。


 どうして私がそういう内容のストーリーを書いたのか、和田教授はしっかり説明することもできたのは、さすが文芸批評家だと感心した。

 それは私の感じやすいところを愛撫されているように心地良い気分になった。

 だが、二回目の作品は、展開が予想がついてつまらないと言われてしまった。

 その日は降り出した雨の中、傘を買わずに、ずぶ濡れになって電車に乗らずに歩いて自分の部屋に帰った。

 涙があふれてくるのが、雨に濡れていればごまかせる気がして。


 三回目の作品を、ファミレスで返却されて「文学をなめるな」と和田教授から言われた時に、私はこの歳上の知識がある人に、私には魅力がないと見捨てられた気がして悲しくなった。


 私は怒った和田教授から、もう作品は受け取らないと言われてしまった。


 私はそれからしばらく何も書く気が起きなかった。同じ学部の人から告白されてつき合い始めたのは、心にぽっかりのあいてしまった穴を、私は何かで埋めたかったのかもしれない。


 私は彼氏と、大学のそばのファミレスで待ち合わせをしていて、和田教授がとても美人の後輩の学生と、私と会って話している時よりも饒舌じょうぜつになって笑顔を浮かべている様子を、偶然にも見かけてしまった。


 その美人の後輩は、あとで「日本のヴァージニア・ウルフ」と文壇に大絶賛されてデビューした。

 泉美玲。彼女のデビュー作は、私には書けない女性の同性愛者の恋愛小説だった。


 和田教授にすでに学生の頃に認められていた彼女と、私の実力の差は明らかだった。自分のデビュー作の作品と彼女のデビュー作を比較して、私は絶望した。

 彼女の作品は、ダイヤモンドのように美しい。


 私が大学や和田教授を訴えたのは、彼女へ嫉妬と和田教授へのやつあたりだった。

 私はたしかに勝訴はしたが、それが私の人生にとって、なんにも意味がないことを知っている。


 大学では、また別の教授が採用されて、効率良く単位をもらいたがる学生たちにふりわまされるだけだろう。


 私は和田教授と美人の後輩が話を終えてファミレスから出て行くまで耐え切れずに、彼氏の前で泣き出した。

 彼氏の世話になっている助教授は、和田教授をかばっていたので嫌な気分になり、私は大学を勢いで退学してしまった。


 彼氏は無事に卒業して、弁護士の助手として働き始めた。

 私と彼氏は大学のセクシャルハラスメントを告発したいと、彼氏の勤務先の有名な弁護士に相談を持ちかけた。

 結果はどうあれ弁護士事務所の宣伝になると、矢崎大介という初老の男性の弁護士は引き受けてくれた。

 噂では、勝てる案件しか引き受けない弁護士だった。


 アルバイトしなければ、私は生活できなかった。私は退学してある出版社のライターになった。

 私が大学へ行かない以上、仕送りはしないというのが父の意見だった。一度決めたら頑固なところがある。

 連載したエッセイの人気が出たので、そのあと、よくある恋愛小説を執筆する話に乗れて、純文学ではなかったけれど、私はデビューすることができた。

 和田教授にふられたあとに、とりあえずつき合った彼氏は、私がデビューできたことを、素直に喜んでくれた。

 私と同棲した彼が、経済的に援助してくれていなければ、アルバイトの賃金だけでは生活できず、私は路頭に迷っていただろう。


 私は今も、和田教授の心を実力であっさりと奪った泉美玲に、嫉妬し続けている。

 だから、私は恋愛小説から、男性と女性の性愛を書く官能小説を書くことにした。雨宮れおな。それが私のペンネームだ。


 私は自分から、大好きだった詩を手放して遠く離れてしまったことをちょっぴり悔やみながら、真夜中に、うぶな女子大生が性愛の悦びに目覚めていくというよくある官能小説を執筆している。

 

 私の父は浮気をしていた。母には今でも、この話は内緒にしている。小学生の頃に父の不倫相手の人妻から、私はちゃっかりパフェをおごってもらったことがある。

 その人妻が「雨宮さん」という名前だった。父は私のペンネームを見て、かつての秘密の恋を思い出すかもしれない。


 私にはたぶん、嘘つきで見栄っ張りの父と似たところがあるのだろう。







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