第155話

「あそこだ」


 視界に建物を捉え、私はつい口走った。と同時に歩くスピードが一段増す。早く会いたい。そんな気持ちが足にも伝わったのだろう。気付いた時にはアパートの前に立っていた。 


 あの時は真っ暗で外観もほとんどわからなかったが、こうして明るい時間帯に来るとその老朽ぶりがはっきりと伝わって来る。築四十年、あるいはそれ以上かもしれない。


 出払っているのか入居者が少ないのか、駐車スペースと思われる場所に止めてある車は一台だけだった。年季の入った軽トラが建物と妙に調和している。



 大きく一つ息を吐き出してから歩み出す。二階へ続く鉄製の階段まで差し掛かった時、アパート名らしきものが目に入った。『向日葵荘ひまわりそう』と記された文字は辛うじて読めるほどに褪せている。手直しもしていないのだろうと思いつつも、その名前につい苦笑が浮かんだ。


 たぶん、お母さんの部屋は一日陽など当たらないはず。それが陽当たりを好む向日葵とは皮肉にも取れる。階段や手すりは至るところに錆が浮いていて、うっかりすると手が汚れてしまいそうなほど赤く変色していた。


 掴む場所を選びながら二階へと昇る。中央にある通路は昼間でもやや薄暗く、かび臭い匂いがあの日を思い起こさせた。


 記憶を頼りに数台の洗濯機を避けながらゆっくりと進む。時折床からギーという音が鳴った。ある部屋の前まで来て立ち止まった。



「ここだわ」


 手書きで『児島』と記されたお印程度の紙が入り口の横に貼られている。


 一つ息を吐き出してから、トン!トン!と軽くノックしてみる。中からの返事はない。ドアに顔を寄せる。音らしきものは何も聞こえない。それから念のためにもう一度ノックする。やはり先ほどと同様。どうやら留守らしい。


 仕事でも買い物でも良い。そう思って踵を返そうとした時、確か、前回は鍵が掛かっていなかったと色あせたドアノブを握って捻ってみた。するとガクッ!という反動と共に扉が五センチほど開いた。まるでドアノブに感電したように私はドアから離れた。


「なに?‥‥‥」


 事態が掴めずに離れた位置からドアノブを見つめている。身体は強張ったままだ。分かったのは鍵が掛かっていなかったということだけ。



 それにしても‥‥‥開き方が‥‥‥。


 後ろめたい気持ちで恐る恐る僅かな隙間から部屋の中を覗き込む。その直後、心臓が大きく跳ね上がった。跳ね上がるどころかそのまま止まりそうだった。仰天した私は紙袋を落として数歩後退さる。両手で押さえた口から出るのは乱れた呼吸だけで声は出せなかった。


 きっと‥‥‥何かの見間違い。


 ドクドクと言う鼓動に錯覚という文字を交えてもう一度中に目を向ける。再び心臓が跳ねた。人がドアの裏側に居る。そしてそれが誰であるのかも直ぐに理解した。


 怖さと言うものを振り払った私は開いたドアの端を両手で掴んで引いた。力が足りないのかドアはびくともしない。そこで右足を壁に当てて思い切り力を込めた。ズルズルと扉が開く。


 それと共に無残な姿と化した人間が姿を見せる。

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