第69話
ヨタヨタと歩き始めたのは周囲が闇に包まれてからだった。重い足取りは腑に落ちた心の表れでもある。だから否定するのも放棄した。
今の私を見ても何も感じなったお母さん。高校生になった時に、「梨絵さん」と呼んだ時のお父さんとの距離。どちらにも似てないと言った同級生の言葉。八神さんが三十歳と話した時にお父さんが感慨深くなったのは私を譲り受けた年齢だったからに違いない。今更だろうがどれも辻褄が合う。
しかし、今となっては確かめる術はそのどちらからも得られない。お母さんは認知症を患って施設に入っている。例え訊いたところでまともな答えは返って来ないだろう。お父さんに至っては既に他界しているため、文字通り秘密は墓の中まで持って行ったことになる。
亡くなる数日前に言ったことは、さりげないメッセージだったのかもしれない。
家族で過ごす時間などほんのひと時。そう思うと私が実の親と過ごした時間などは瞬きするのと一緒。ならばその時間を少しでも取り戻そう。そのためにはもう一度お母さんに会わなければならない。
会いたい。会って話がしたい。
ふと歩きながら、願わくばあのアパートにと思った。
「必ず行くからね。その時はお茶を買っていくから。もう一度二人だけでゆっくり話しましょう‥‥お母さん」
暗い夜道で一人呟くと、僅かながら視線の先が明るくなった気がする。そう、今は少しでも楽しいことを思い出さないと。
自分に言い聞かせるようにして過ぎ去った時を脳裏に映し出した。
―――「おめかしして今週も出掛けるの?」
山へドライブに行った翌週の日曜日。支度を整えて階段を降りて行くとお母さんに声を掛けられた。
「別におめかしってほどでも‥‥‥」
それとなく服の乱れを気にするように視線を逸らす。そんな動作に一つ笑いを漏らしてから、「ここ最近、なんだか急に梨絵ちゃん奇麗になったみたい」と私の顔を覗き込むようにして目を細める。
「そろそろお肌の曲がり角って言いたいんじゃないの?」
にやけそうな顔を抑えながら私は玄関へと歩いた。
「ちょっと出かけて来るのね?」
言おうとした台詞は先回りされてしまった。
「そう‥‥‥ちょっと」
それでもお決まりになった台詞を呟いてみる。
「外でお食事も大変だから、今度はそのちょっとという人を家に連れていらっしゃい。きっと夜ご飯だって困ってるでしょうから」
履きかけたヒールをそのままに振り返ると、それに合わせたようにお母さんは小首を傾げる。すべてお見通しという顔だ。何も言わず私は僅かに頭だけ動かした。
「このところほとんど毎週だから、おかしいって思われても無理ないか」
車で移動し始めてから家でのやり取りを話すと、八神さんは照れ臭そうに言って笑った。
「お母さんなんて八神さんじゃないかって、薄々気付いてるみたいで」
「‥‥‥そうか」
前を見たまま八神さんは口元を引き締める。それから「お父さんも?」と確認するようにこちらを向く。
「お父さんは特には‥‥‥。でも一緒に飲んだのが楽しかったのか、時々訊かれることがあるの。八神さんはどうしてるかなって―――」
引き締めていた口が緩むのが分かった。
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