第68話
「捨てて来たんです‥‥‥子供を」
「す‥‥‥捨てた!?」
雷に打たれたような衝撃が全身を走り、悪寒のような震えが湧き出す中、やっとの声を出す。それが精いっぱいだった。私はただただ児島さんを凝視しているだけ。まるで何かの答えを見出すように。
「頑張って育てようとはしたんですが‥‥‥」
途中から涙声に変わった。俯いたまま肩を震わせている。隣の私は呆然としたまま早鐘を打ち続けていた。
(そんな‥‥‥ことって)
口には出せない台詞を何度となく心の中で呟く。有り得ないと否定しつつも、肩に添えた掌も見つめている瞳もそれを打ち消してしまう。呟けない言葉の代わりに手に力を込めた。その直後、私の頬にスッと何かが伝わり落ちる。
「そう‥‥‥そうだったの」
やっと出した私の声も震えていた。あの夜訪れた慎ましい生活を知るものであれば、それ以上訊くことは何もない。あるとすれば神様を呪うことくらいだ。
(なんで‥‥なんでこんなことを今になって教えてくれたの!)
暗い空に向かって大声で叫びたかった。これがもし中学生の私だったらどんなことになっていただろうか。考えただけでも恐ろしい。
今は八神だけれど、本当ならば児島梨絵が私の名前だったのかとそのぼやけた横顔を見つめる。どことなく自分に似ている。薄々気付いていたのに何かの間違いじゃないか。そう思うことで長年暮らした家族の思い出を壊さないようにしていた。
でも今はそれが石ではなく砂のお城。グズグズと音を立てて崩れていくのが見える。身籠った経緯も既に私は聞かされている。捨てたといったのは母親としての心情だろう。
仮に育児放棄の挙句、衰弱か何かで死亡したとするなら、こうして五十半ばまで生きてこられなかったということになる。そう考えれば選択は間違ってなかったとすべてを飲み込むように声を掛けた。
「やむを得ない事情がきっとおありだったのね」
「ダメな母親なんです」言いながら児島さんはゆらゆらと顔を振る。
それを見て今後は私が違うとばかりに首を振る。きっと肩からその思いは伝わっているのではないか。
「途中までかもしれないけれど、死なせなかったということは頑張った証拠じゃない。あなた良くやったのよ!今はそのバトンを―――」
口から出たワードに以前お父さんが言った台詞が浮かび、そういうことだったのかと合点する。バトンとはつまり私のことだったのだ。
「きっと、あの子は幸せになるわ」
「そう‥‥でしょうか?」
児島さんは不安そうな瞳で私を見た。
「なるわよ。間違いない。そして、いつかあなたと再会出来る日がきっと来る」
「もし‥‥そうなったとしても会わせる顔なんて‥‥‥」
首を振った後で児島さんは腰を上げる。その拍子に両肩に置いた私の手がするりと外れ繋がれた僅かな絆もそこで途絶えた。
「いろいろ、すみませんでした」
それが児島さんの最後の言葉だった。呟いた後で何かを断ち切らんと薄暗い闇の中に駆け足で消えていく。私はじっとその後ろ姿を見つめるだけで立ち上がる事すら出来なかった。
「お‥‥‥母さん」
誰にも届くはずもない言葉を口にしてから、まるで入れ替わるように私は一人そこで泣き続けた。
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