第26話

「もう少し時間を過ごしてみる?」

「ええ。頑張ってみます」


 私はその声に穏やかに笑って数回顔を振った。


「頑張らなくていいの。出来ることを普通にするだけで。でも生活していくにはお金も必要だから児島さんがまず出来そうな仕事を探してみることね。そのためにまずはゆっくり寝ることね。どうせ今日はお休みなんでしょ?」


 照れくさそうに児島さんはこくりと頷いた。


「これ以上寝られないってくらい寝たらいいわ。実はこれ私もやるのよ。夫と喧嘩したり辛いことがあったりすると家事を放り出して寝ちゃうの。そうするとスッキリとまではいかないけど少し楽になるのよ。中には食べるって人もいるけど私は断然寝る方ね」


 並べたのは作り話だが、児島さんの顔に笑みが浮かんだ。


「焦っちゃダメよ。時間はあるんだから。のんびりして退屈して来たらそこに置いてある雑誌でも眺めてみたら?もしかしたらそこに次の児島さんの運命があるかもしれない」と私は無造作に置かれた求人誌に目を向けた。視線を追うようにもう一つの顔も動く。


「ひょっとしたら今日というか昨日買って来たんじゃないの?」

「‥‥‥ええ」


 見ていて嫌気が差したのかはともかくとして、それを買うだけの気力はまだ残されていたということなのだろう。


「怪我らしい怪我もしなかったし、私にも出会った。これがもし運命だとしたら良い運命がその中に潜んでいるかもしれないわよ。なんてこと言って違ってたらごめんなさいね」


 ちょっとだけお澄ましして言うと、一メートル程先の口元に温かみが灯る。それから児島さんが掌を数回振って見せた。少しだけ元気を取り戻したようだ。


「じゃ~、これで私はお暇するけど、また伺ってもいいかしら?」

「あ‥‥是非!」


 潤いの枯れた畳に手をついて立ち上がると、それに合わせるように向かい側の色褪せ気味のデニムも動く。


「お見送りはここでいいから―――」


 そっと呟いて建付けの悪そうな扉を静かに閉じる際、僅かな隙間から一礼する姿が見えた。それから私は息を一つ吐き出し、足元を確かめながら階段を下りた。少し歩いてから建物を振り返って見たが、部屋の位置が反対のせいだろうか、灯りは何一つ確認できなかった。あるのはアパート付近の電柱に灯る寂しげな灯りだけ。


 今度ここに来られるかは正直わからない。でももし来られた時に仕事で留守だったとしたら残念どころか喜ばしく感じるはず。きっとそうあって欲しいと願った。


 一瞬だけ温まった心も街灯に照らされた影のように歩み出してほんの僅かな時間で消え去ってしまった。秋の未明という時間だけが私を寒くするのではない。きっと静寂に足音を響かせながらもあの事故の光景を思い出していたからだろう。


 あどけない幼少の頃の先輩。念願の激辛ラーメンとそこを訪れた私達とのやり取り。どれもが楽しいひと時で、それに続くものも私を笑顔にしてくれるとばかり思っていたのに、まさか今村さんの事故を目の当たりにするとは―――。


 永遠に分からず仕舞いと思われた事故の原因が解明されたことで、胸の内を覆う黒い雲が一つ掃われたのは確かだとしても、今村さんが死んだ事実は変わらない。



 でも‥‥‥。


 自分を犠牲にして人を助けたことを考えると、なんだか喜ばしかったりもする。何を言ったところで今更だろうけれど、伝えないわけにはいかないと思いを暗い夜空に呟いた。



「先輩‥‥‥今村さん‥‥‥良いことしたんだよ」

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