第77話

「梨絵‥‥これで良いか?」


 私は八神さんの方に向き直った。そして呟いた。


「‥‥ジュン」


 常夜灯の仄かな明るさの中でも八神さんの目が大きくなるのが分かった。


「呼び捨てじゃイヤ?」

「嫌ってことは‥‥いきなりだったから、ちょっと驚いたけど」


「だって潤ちゃんって言うとなんだか―――」


 そこまででも言わんとすることが伝わったらしく、「そうだな」と八神さんは優しく言ってくれた。


「ジュン‥‥ジュン」笑いながら私は何度も呟く。

「もう一回言ったらその口を塞ぐ」


 言おうと開きかけた途端、言葉通り口は塞がれた。八神さんの唇によって。




――――「ジュン、ジュン、ジュン、ジュン‥‥」


 歩きながら歩調に合わせて声に出す。たった一度や二度、口にしただけでときめいたというのに、今は百回声にしてもあの頃の一回にも満たない。年齢を重ねるってこうことなのかしら、と少し寂しい風が胸中に吹く。特別に響いた名前も、もはやお味噌汁の具材となんらかわらない。


 お豆腐、ワカメ、シジミ、ジュン‥‥‥。


 あるいはいくつになってもドキドキし続ける人もいるのだろうか。少なくても私は違うと断言できる。ただし、あの頃は私の家に来た場合は、潤のことは八神さんと言っていたし、潤も私のことを梨絵さんと呼んでいた。これは暗黙の了解。


 心に明るさが増すにつれ、不思議なもので周囲も徐々に色彩を取り戻している。歩を進めるたびに夜が昼へと変わって行き、病気にでもなったように額に汗が滲み始める。何気に周囲を見回すと見覚えのある街並みが広がっていて、徘徊していたような不安が一気に和らいだ。



(もしかして‥‥現代に帰った)


 自分の持つ最新の記憶と照らし合わせながら時の違いを探る。飾られた花は別にしてあの花屋はたぶん変わっていない。信号の角の薬屋はどうかと視線を送った時、違和感よりも懐かしさを覚えた。郊外に出来たドラッグチェーン店によって、いち早く廃業を余儀なくされた薬屋だ。そのお店が残っているだけでも時代はかなり前で、交差点の電球式の信号機もそれを裏付ける。拡張されたはずの道が狭かったり、よくよく見れば違いは歴然だった。


 昭和の景色に後押しされるかに私の足が忙しくなる。駅に向かうその姿を傍目で見れば乗り遅れまいと懸命に歩くおばさんに映るかもしれないが、目的地はその少し手前の路地を曲がったところにあるお店。



『花梨』である。


『花梨』は昔ながらの喫茶店で、先輩のお母さんである晴美さんの妹が経営していて、比較的最近もここへ潤と訪れている。妹さんの名前は雪子ゆきこさんと言って御年は八十六歳。今も現役でコーヒーを淹れ続けている元気なお婆さんだ。


 いつだったかレトロなお店として取材の申し込みがあったとのことだが、常連さんに迷惑が掛かるからと断ったのだそうだ。


 顔を皺だらけにして笑う姿が記憶に新しい。

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