第82話
急激な変化にもだいぶ慣れはしたものの、あまり歓迎する状態ではないことも察していた。それでもまだ知らない街じゃないだけ良い。
交差点の角で足を止める。赤信号を待つか青の方向に歩くか迷っていると、その青信号の先の方から来る自転車に目が留まった。
何かがおかしい‥‥‥。
ヨロヨロしていて見ているだけでハラハラしてしまう。お年寄りなのだろうか。私はじっと危なっかしい自転車を追い続けた。そして最後は「危ない!」と声をあげながらその方向に駆け出していた。
自転車が力なく倒れたのは私の十数メートル先だった。アスファルトで頭を打っているのが見えた。ただ事じゃないとワンピースの裾を大きく揺らす。
「大丈夫ですか!?」
しゃがみ込むようにして声を掛けた私は倒れた女性の顔を見て息を止めた。先輩のお母さんの晴美さんだったからだ。何度も声を掛けたが反応が無い。近くを通りがかった人もその様子に駆けつけてくれた。
「どうしました?」
「急に倒れたんです」
ただ事じゃないと察したのか、やや年配の男性は救急車を呼ぶからと近くの店に飛び込んでいく。こんな時にこそスマホがあればと思ったが、やはりそれらしい感触は無い。やがて男性が慌てて戻って来る。
「今、連絡して来ましたから。お知り合いの方ですか?」
「いえ、たまたま近くに居たというのか‥‥‥」
知り合いと言うと一緒に救急車に乗ることになる。するとまた話がややこしくなるので、ここはあえて知らない振りをした。
晴美さんの死因は先輩から聞かされている。だから晴美さんが助からないことも知っていた。それでも身内の誰かが死に目に会えればと、『花梨』でもらった領収書を人の目に触れないように晴美さんのポケットに差し入れる。そして、眠るように目を閉じた晴美さんの顔を瞬きもせずに見ていた。
(いつだったか、頑張り屋さんだからなんて話した覚えがあるけれど‥‥‥晴美さん。あなた少し頑張り過ぎちゃったのね)
私は心の中で語りかけた。
サイレンの音が聞こえたのは数分後で、近付くにつれて周辺はサイレンの音一色に包まれる。けたたましい音で聞こえないと思った私は、晴美さんの耳元に顔を寄せ、「頑張るのよ」と声を掛けた。
赤色灯を灯した救急車が手招きした男性の前で止まる。すぐに後ろのゲートが開けられ隊員が数人駆け寄って来る。
「どうされましたか?」
「自転車に乗っていて突然フラッと倒れたんです」
くも膜下出血については黙っていた。医者でもない私が余分なことを言っても話が混乱するだけだろうし、運ばれる病院でわかることだ。一分にも満たない時間だっただろうか。担架に載せられた晴美さんは暗い街に溶け込むように消えて行った。
自転車に乗って警察官がやって来たのはその数分後だった。
居合わせた私にあれこれと事情を尋ねて来る。しかし、ここでも先ほどと同じ答えしか返せない。おおよその状況を飲み込んだ警察官は、置かれたままの自転車の処置に取り掛かったため、私は一礼してその場を後にすることにした。
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