第81話
「あの‥‥まだ入院とかされてるんでしょうか?」
「いや、ちょっと前に退院したって桑子の方からは電話が来ましたけどね」
俯いていた頭をさらに下げて私は立ち上がった。
「せっかく来ていただいたのに申し訳なかったですね」
杉山さんの労いの言葉にかぶりを振ると、何も手にすることなく私は店の外へと出た。そして車まで歩いてからもう一度振り返ってお店を眺めた。
「お礼も言わず仕舞いになっちゃった」
ポツリ呟いて車に乗り込んでも、心の中の空気が漏れてしまったようにしばらくそのままじっと座っていた。
そう、ちょうど今の私のような格好で―――。
転機というのか、何か心変わりさせる出来事でもあったのかもしれない。それもまた茜さんという女性の人生でもあり運命でもあるのだろうが、せめて行き先だけでもわかれば、と私はあの時と同様のため息を一つ漏らした。
「あの~、お冷のお代わりは如何でしょう?」
不意に届いた声に顔を上げると、ウォーターポットを持った先輩が優しい視線を向けている。残り少なくなった水を口に運んでから、「お願いします」と言って注がれる水と氷の音を聞いていた。アイスコーヒーは既に飲み干している。
あるいはそろそろ帰れというサインかしら‥‥。
―――「お客さん居ないんだからゆっくりして行ってね」
きっとあの頃の先輩ならそう言ってくれるに違いない。しかし、今の私は後輩であっても後輩には見えないおばさんだ。そろそろお暇した方がいいだろうとレジまで歩いて財布を取り出す。きっちり三百五十円入っていた。
次々出るお金と言っても毎回わびしさを感じてしまう不思議な財布だ。
雪子さんと先輩の声を背中で聴きながら、ドアベルを鳴らして一歩足を踏み出した途端、身体を包み込む熱気に私は顔を歪めた。そしてポケットからサングラスでも出ないかしらと、ギラギラした空を見上げた。ただし、体力の衰えは感じない。
軽快な足取りから行き先は決まっているのだと思った。ここから歩いてどのくらいで着くだろうか。どのみち当てなどない気まま旅。多少時間が掛かったとしても、文句を言う人も居ないだろうし、いつ現代に戻るのかわからないのだから、少しでも楽しんでおきたい。
目指すのは先ほど記憶を辿っていたカー用品店。我ながらいい考えだと思った。先輩は『花梨』でアルバイトをしていた。そこから少し時間が経過したとすれば、先輩と茜さんの二人に同時に会えるかもしれない。働いている姿は結局見られず仕舞いだったので、是非ともこれは見ておきたい。
もちろん根拠などない。そんな気がするだけ。だからお店自体がない昔に戻る可能性もある。そうなったらそうなったでまた足に訊けばいい。
願わくば、この見覚えのある風景がいつまでも―――。
私のそんな願いも聞き入れてもらったのは半分程度だろうか。額に滲んでいた汗は既にすっかり引いていて、カット素材の裾を揺らす風も冷たくなってきている。まるで秋の風だ。
すると今度は釣瓶落とし以上のスピードで辺りが暗くなり出した。
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