第94話
「しかし、可哀そうなことしたよなあ」
雪子さんを一瞥した後で、Yシャツにネクタイ姿の男性客が独り言のように呟き首をユラユラと振った。顔を僅かに向けると男性と目が合った。
「あ、こちら
私の方を向いて軽く下柳さんが頭を下げる。年齢的には五十の半ばといったところで私と同じ中年なのだろうが、髪も脂っぽく無くて体型もスラッとしている。漂う雰囲気から管理職か何かで女子社員にも人気がありそうな感じだ。
きっと先輩とも楽しい会話で盛り上がっていたに違いない。
「明るくて良い子だったよなあ。お袋が死んだときも涙は出なかったけど、あの時はさすがに男泣きしちゃったよ。しかし、惨いことする奴がいたもんだよなあ」
カウンターの上の方を見上げて下柳さんはしみじみとした声を出す。
「私だって辛くって臨時休業の張り紙出しちゃったもの」
雪子さんの声も同様で笑顔には届かない笑みだった。
「実の子供みたいに思ってたんですけどね。私のところは子供がいないもんだから」
出来上がったコーヒーを差し出して雪子さんが呟く。私はほんのり湯気を上げる琥珀色に視線を落とす。
「それにしてもお気の毒という他ありませんよね。晴美さんが亡くなっていくらも経たないっていうのに―――」
ため息のように呟いてから私はカップを手に取った。雪子さんがカップを見つめる。
「お母さんが亡くなっても気丈にって言うのか、しっかりしてるなって安心していたんですけどね。でも由佳理ちゃんがあんなことになって、支えていたものが折れちゃったんでしょうね。せめてお母さんの死に目くらいは会わせてあげたかったけど」
雪子さんは弱々しく呟く。私も同感だと思った。
「あの?ママさんの方はお姉さんとは?」
もしやと思って尋ねてみた。
「私はなんとか生きているうちに会えたんですが‥‥‥。それが不思議っていうのか、保険証とかで家に連絡したみたいなんですけど、誰も居ないからって私のところに電話が来たんですよ。それで理由を尋ねたらここの領収書がポケットに入ってたからだって。おかしなことがあるもんだなってあとで思いましたよ。だって姉は何年もここには来てないんですから」
どう考えてもおかしい、と雪子さんは小首を傾げる。
思い付きでやった事とは言え、結果的に雪子さんは死に目に会えた。ひとまずは良い方に捉えよう。気持ちを息に込めて漏らすと横から声がした。
「神様か何かの悪戯なんじゃないのか?」
「あら?下柳さん随分洒落たこというのね」
雪子さんは僅かに口角を上げ優しい目を見せる。一度、ニヤッとしてから下柳さんは俯いた。
「何か相談でもしてくれたら俺も力になれたんだろうけど」
煙草を一本引き抜いたあとで、下柳さんが空いた箱をギュっと握り潰す。無念な思いがそこからでも伝わって来る。そしてライターに火を点し人のいない方へ煙を吐き出す。
漂う煙がやり場のない思いにも見える。
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