第93話
サンダルの音が秒針のように響く。知らぬが仏なんて言葉があるけれど、今ならば潤の冴えない表情からおおよその察しが付く。私が養女であることをお父さんから告げられたのだろう。
ある意味、これは殴られるよりもショックだったに違いない。それでも潤は何も言わず首を縦に振ってくれた。そして、定年を迎えようとする今に至るまでそれを伏せ続けている。
「ありがとう‥‥‥潤」
私はつくづく幸せ者だと感謝の声を漏らした。生憎、ただの独り言として声は暗い夜道に吸い込まれてしまった。
私はどこへ向かっているのだろうか。歩きながら目を閉じると何かが変わる気がした。何度も経験したせいか、予感めいたものを感じる。
時が変わる‥‥‥そして場所も。
うっすら瞼を開けた時には、ネオンや街灯に照らされた場所だけではなく、遠くの方まで見渡せるようになっていた。歩く脇を何台もの車が通り過ぎ、忙しなく歩く人や犬を連れて歩く人の姿も見える。周囲の景色が記憶と結びついた時、見覚えのある店が視界に入る。私は招かれるように引き戸に手を掛けた。
カランコロン♪
「いらっしゃいませ」
すぐにカウンターの奥から『花梨』のママの声が届く。その張り具合と顔の印象などからして前回来た時と同じ時代のような気がする。ただし、先輩の姿は無かった。
店内のテーブルはガランと空いたままでカウンターに一人男性が座っているだけだった。チラと壁の時計に目を移す。針は午後の四時を少し過ぎた辺りを指している。
軽く会釈をしてから私は男性から二つほど離れたカウンターの椅子に腰を下ろした。
「確か、以前にも一度お見えになりましたよね?」
ママである雪子さんが微苦笑を浮かべながらグラスに水を入れて差し出す。傾いた陽射しが差し込む店内にはお印程度のBGМが流れていて、穏やかというよりも心なし重い空気を感じた。
「ええ。由佳理さんがちょうどいらした時だったかしら」
そう言った直後、男性客がこちらを向くのが分かった。そして、雪子さんの笑顔が幾分か歪んだ。
「由佳理ちゃんをご存じだったんですか?」
「あ‥‥いえ、私は晴美さんと少しお付き合いがありまして。それでいつだったかお線香を上げに伺った時に倅さんから話を―――」
相槌を打つ雪子さんの表情には化粧で隠しきれないやつれが伺える。恐らく事件の後なのだろうと思った。
「じゃ、お葬式にも?」
「‥‥‥いえ」
少し間が開いたのは考えを巡らせていたからだ。実際は晴美さんの時も先輩の時も列席していたが、どちらのお葬式なのか曖昧だったためとりあえず否定した方が良いと僅かに首を振った。
「そうでしたか。由佳理ちゃんや私のことも‥‥‥その時に?」
「ええ。妹さんだって―――」
そこまで言って私はホットコーヒーを注文する。どんな話をしていいものか。手を動かしながら雪子さんは何か思案しているようにも見える。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます