第92話

「八神さん。その話は二階でしようじゃないか。実は俺からも話があるんだよ」


 階段の方へ手を向けると、合わせたようにお父さんと潤は腰を上げる。当事者なのだから一緒に聞こう。そう思って立ち上がろうとする私をお父さんが制した。


「梨絵ちゃんはここでお母さんと待っていなさい」


 いつになく真剣な表情は怖いくらいにも見える。不意に嫌な予感が走った。


「お父さん、まさか殴ったりはしないでしょうね」


 心配そうな私の声に一瞬目を見開いてからお父さんは数回首を振った。


「手を挙げるくらいなら玄関でやってるよ」


 口角だけ少し上げてお父さんは階段を上り始める。その後ろを潤が続く。二人の背中を見送ってから私はまたソファーに腰を下ろした。



「男同士の話ってのもあるのよ」


 不安を和らげようとお母さんが優しく声を掛けてくれる。


 

 男同士の話っていったい‥‥‥。


 一分が五分にも感じられるほど時間が経つのが遅く、私は壁の時計を何度も見た。触れられることも忘れられたテーブルの上の飲み物は冷めているに違いない。私はそれをぼんやりと眺めていた。



 階段を下りる音が聞こえたのはどれくらい経ってからか。私は我に返ったようにその方向を見つめる。まずはリビングにお父さんが顔を見せ、そのあと潤が現れる。潤は虚ろな表情で頬を掌で押さえていた。


「お‥‥‥お父さん、何したのっ!?」


 その様子を見てつい大声を出してお父さんを睨んでしまった。すると潤が押さえていた手を外してニヤッと笑う。顔にはアザも何もなかった。


「も~っ!」


 事態を把握した私は再び大声を上げる。誰に対してというよりも、下手に気を揉んで損をしたという怒りだ。そんな私を見て皆が笑い出す。


「梨絵ちゃん。これはお父さんの企てじゃないからね」


 怒りの矛先を失ったかに、私は冷たくなったコーヒーを一気に流し込んだ。潤はそんな私を見てやや口角を上げたものの、顔色はどこか冴えないようにも見えた。



「梨絵ちゃん。おめでとう!」


 不審めいた視線を感じとったのか、咳払いを一つしてお父さんが優しく声を掛けてくれた。私は潤とお父さんを交互に見る。どちらも穏やかな表情に変わっている。


「話は済んだから。お父さんも、もちろんお母さんも大賛成だ」

「良かったわね。梨絵ちゃん」


 何か大きな山を乗り越えた喜びから、私の目から大粒の涙が零れ落ちる。すかさずお母さんが近寄って肩を抱いてくれた。気付けばお父さんの目も光っていたように見える。


「ありがとう」


 涙声でお父さんとお母さんに気持ちを伝える。


「おいおい、今からそれじゃ、式の時は思いやられるな」


 呆れて笑うお父さんの声も私とそれほど変わらなかった。



―――「先輩。潤‥‥‥八神さんと結婚することになりました」


 その日の夜、私は写真立ての先輩に報告をした。満面の笑みから祝福の声が聞こえてくる気がする。だから私も、「ありがとう」と涙を浮かべて応えた。


 ベッドに入っても結婚というバラ色の響きでなかなか寝付けなかった。あるのは喜びだけ。従って二階でどんな話があったのかはどうでも良くなっていた。

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