第156話

「お母‥‥‥さん」


 首にはナイロンの紐が結ばれていてそれが内側のドアノブへと繋がっている。呆然となった瞳から次第に涙が溢れ出て来る。ゆらゆらと顔を揺らした。それからお母さんの頬に手を当てた。既に冷たくなっていたが、失禁したと思える匂いが鼻に届く。それほど時間が経っていないのではないか。



「どうして‥‥‥待ってて‥‥‥」


 無念という思いを吐き出す。あと数時間も早ければ元気なお母さんに会えた。そう、会えたのに、と倒れそうになる身体を壁で支え特徴的な泣き朴を見つめる。


 苦しさを訴えるように口からは舌が出ていた。ぼんやりと部屋の中に視線を移した時、小さなテーブルの上に白い紙が見えた。何か文字が書いてある。それに何かを感じた私は狭い隙間から身体をこじ入れ、ささくれた畳に膝を着いて手を伸ばした。



【やがみさん すみません そしてありがとう】


 すべてひらがなで綴られた文字を前に私は項垂れて肩を揺らした。


「謝る必要なんて‥‥‥ただ、生きていてくれればそれで良かったのに‥‥‥」


 涙目のままカラーボックスに顔を向ける。おしゃぶりとお掛けが目に入る。私が使ったおしゃぶりだ。愛おしいものを見るかに私は笑みを浮かべた。そして洟を啜りながらまたお母さんの顔をまじまじと見つめた。大粒の涙が頬を伝わり落ちる。出来ることならその胸で思い切り声をあげて泣きたかった。


 いつまでもこうしてはいられない。意を決して立ち上がった私は、お母さんの太腿の上に買ったばかりのお茶とどら焼きを一つ置き手を合わせた。そして、一言告げた。


「さようなら‥‥‥お母さん」


 部屋の外へ出ると今度は重い扉を力任せに押す。重かったのか辛かったのか、顔を歪ませ歯を食いしばってこれ以上ない力で押した。


 それから軽くなった紙袋を手に階段を駆け下りた。本来ならその場で大声を上げて知らせたかったけれど、関係性は兎も角としてどこの誰だと訊かれたらおかしなことになりかねないし、そもそも人が居るのかもわからない。



 アパートをあとにした私の足取りは違った意味で速かった。涙を見せぬよう強く唇を噛んでひたすら電話ボックスを探す。こんな時こそとポケットに手を当てるがやはり無駄だった。


 そこからどう歩いたのかは記憶にない。夢中でただ歩き続けた。視線の先に電話ボックスが現れた時には思わず駆けだしていた。


 救急か警察か迷った末、警察に連絡を入れた。まさかこれだけ短い期間に二度も掛けるとは夢にも思わなかった。


「人が‥‥‥人が死んでいるんです」


 電話での応対は手慣れてはいるが、さすがにこの番号だけは話が別で、ましてや自分の実の親だ。相手の声が聞こえた途端、声が上ずってしまった。落ち着いてくださいと言われたところで落ち着けるものでもない。


「住所はわからないんです。向日葵荘っていうアパートの二階なんですが‥‥‥児島さんと言う方です」


 名前を訊かれたところで受話器を戻した。八神と名乗ったところで問題はないのだろうが、メモにもその名が記されていたと不意に思い出したのである。たぶんこれで伝わるはず。


 私は大きく息を一つ吐き出し電話ボックスを出た。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る