第157話

 書置きもあるし、状況からして自殺として片付けられるに違いない。


 出来ることならナイロンの紐くらいは外してあげたかったけれど、結局、何も出来ずに立ち去ってしまった。薄情な娘と思われるかもしれない。そっと振り返った私は後悔の念に駆られた。


 どら焼きが一つしか入っていない紙袋が、鉛でも入っているように重かった。初めて会った公園での出来事、そして、未明の時間に会ってアパートに招かれたこと、歩きながらお母さんとのやり取りが浮かんでは消えた。


 お茶を飲んでゆっくり話したかった。些細な望みも叶えられなかったせいか足取りは重い。


「結局これが運命だったのね」と何事もないかのように澄んだ青い空を見上げた。



 トボトボという表現が似合う足取りは、私の年齢を十歳も引き上げる気がしたけれど、とても今の気持ちでは軽快には歩けない。ましてや行く場所もわからないのだ。

辛い気持ちから夢でもタイムスリップでも良いから現代の生活に戻りたいと思った。


 雑踏から逃れ人目を避けて歩いていたら土手のようなものが見えた。ちょうど自転車等が登れる道が整備されていたので、私はそこから高くなった場所へと向かった。


 土手の上はアスファルト舗装が施されサイクリングロードになっている。人や自転車は見えなかったものの、一人になりたい私には好都合に思えた。川面を吹き抜ける風が心地よく髪を揺らしていく。涙はもうすっかり乾いていた。


 揺れ動く淡いグリーンの裾を畳むようにして川を見下ろせる場所に腰を下ろした私は、袋から取り出したどら焼きを頬張った。もっちりとした弾力があるのにサクッと簡単に嚙み切れる。甘い香りが風の中でも鼻に届いて、その時だけは穏やかな気持ちになった。



「美味しい‥‥‥」


 だからなのか無意識に声が漏れた。


 上質な甘さを味わいながら口をもぐもぐ動かしていると知らぬ間に涙が溢れて来た。


「これを一緒に食べたかったね‥‥‥お母さん」


 洟を啜りながら食べるどら焼きの味は甘いようでほろ苦くもあった。食べ終わってぼんやり川を見ていた私は周囲の変化を感じ取って立ち上がった。



 時間‥‥‥もしかしたらまた場所が変わる。


 幾度かの経験が私の腰を浮かせたのだろう。思った通り一分も掛からずに周囲は暗闇に包まれた。吹き付ける風も明らかに先ほどのものとは違う。目を凝らすようにして私はサイクリングロードを歩き始めた。



 いや‥‥‥違う。


 ほんの数歩歩いただけで別の道だとわかった。伝わる雰囲気からして山道ではないだろうか。次第に目が慣れていく。不思議なことに赤外線カメラのように見ているものがモノクロではっきりと見える。まるで本当に夢でも見ている気分だ。


 ギリギリ車がすれ違える程度の道の傍には何軒かの家もあって、明かりが灯っていると思われる窓の周辺は白一色に見える。きっと普通の目だったら淡い光に映るはず。


「いったい‥‥どこなのかしら」


 そう呟きながらも初めて来た場所にも思えなかった。何となく見た記憶がある。ただ、こんな道はどこにでもありそうだから気のせいかもしれないと思った。

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