第129話

―――「良いわね。グアム。行ってみようかしら」


「ええ!是非!素敵な思い出になると思いますよ。その際は当社にお声がけください。素敵なプランをご用意いたしますから」


 佐々木さんは輝かせた瞳でじっと私を見つめる。口角も一段上がっている。顧客を獲得した。付き合いも長いので語らずとも心の内が手に取るようにわかる。


「もちろん、その時はこちらにお願いに伺いますから」


 パンフレットを手に立ち上がると佐々木さんと五十嵐さんが揃って腰を折った。何が原因で辞めるのかはわからないにしても、今更声を掛けたところで無駄なことだと口を噤んだ。現代に戻れば彼女どころか会社もないのだから。




 頂いたパンフレットを折り畳んでポケットに仕舞いこむと、もう一度振り返って懐かしい建物に目を向ける。スマホでも持参していたなら記念に一枚撮っておきたいくらいだ。


 働いている時はよもや無くなるなんて微塵も思っていなかったので写真に残すなどという発想が湧かなかった。周囲に目を凝らす。きっと今見ている景色のどこを撮っても時代の移り変わりが感じられるに違いない。



「時の流れって本当に早いわね」


 誰に言うことなく口から零れる。気が付くとそっとお腹を掌で押さえていた。予感がするなどと言ってはみたものの、所詮はただの思い過ごしでしかなかった。ただ、あの時は楽観的に考えられた。


 私の足がまた動き出す。しかし、今回の歩みは時間に急かされてるふうでもなく至って穏やかだ。年齢を重ねた今となってはこのくらいが助かる。いずれ消える建物や見られなくなる更地を横目に裾を揺らす。


 

 テンポよく歩んでいた足が止まったのはしばらくしてからだ。けっこうな距離を歩いたようにも思える。その証拠に辺りはすっかり薄暗い。


「ここだわ」


 視線の先に辛うじて見える畑をぼんやりと見つめる。それから左右に延びる道路や風景に目を走らせる。思いがけないものを見られたと自然と私の口角があがっていく。それもそのはず、ここに私達が結婚生活という時を過ごす『エレガンス』が建つのだから。


 不意に感じた気配に目を凝らせば、周囲が徐々に明るく変わっていく。それに伴って畑が均され基礎が打たれ外壁、そして窓ガラスと建物が、宛ら映画のCGのワンシーンでも見ているかのように出来上がっていく。気が付いた時にはすっかりコーポが完成していた。


 ここで暮らしたのは十年。その後は実家に帰ることになる。新築の建物を見ていたら新婚生活という甘酸っぱい記憶が脳裏で再生された。




―――「いってらっしゃい!」


 声に応えるかに潤が沓脱のところで口を尖らせる。私も唇を少し突き出して返す。これが朝の見送りのお約束事だ。ただし、潤の出勤の方がやや早いだけでその数分後には私も仕事に出なければならない。


「たまには格好だけじゃなく本当にしてもらいたいよな」


 ドアを開きながら潤がニヤッと振り返る。


「唇を赤くして会社に行っても良いなら私は別に構わないわよ」


 こんなやり取りも新婚ならでは。互いに交わす瞳だけでもこの上ない幸せが感じ取れる。

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