第66話
―――絶望という世界に迷い込んだ私は生きる気力すら失っていて、気付いた時には学校の授業で使ったカッターナイフを手にしていた。
涙は砂漠のように枯れ果てたのか、あの時はもう流そうと思っても出なかった。私も先輩のところへ行こう。考えていたのはそれだけ。高校三年の冬のことだ。
部屋の蛍光灯の光が照らし出す刃先が青白い手首に触れる。チクリとした感触のあと、ほんの僅か赤いものが目に映る。不思議と痛みは感じなかった。
「すぐ行きますから‥‥‥待っててくださいね」
再び会えるという喜び。もしかしたら笑っていたのかもしれない。
そんな私の手を止めたのはどこからともなく聞こえた先輩の声だった。
(梨絵ちゃんはまだ来ちゃダメ!梨絵ちゃんは私の分まで生きるの。まずは約束した免許をちゃんと取って)
「約束って‥‥‥先輩こそ私が免許を取ったら助手席に乗ってくれるって約束したじゃない!」
大声で叫んでからカッターナイフを放り投げる。凄まじい音が部屋に響く。その時、出ないと思っていた涙が再び溢れて頬を伝い落ちた。
「先輩っ!‥‥‥先輩っ!」
どこかにいるような気がして何度も部屋の中で泣き叫んだ。幻聴だったのかとも思ったけど、あれは間違いなく先輩の声だった。その声に後押しされたのか、二週間ほど休んでいた学校と教習所に私は再び通い始めた。
「ヨイショ」
落ち葉から頂いた遠い記憶に別れを告げよう。そう思って立ち上がると思わず声が漏れた。ふと辺りを見回したものの、幸い人気は無かった。もっとも聞かれたところでおばさん定番の掛け声みたいなもの。恥ずかしさは然程感じない。
知らぬ間に陽は傾き黄昏時に変わりつつある。いざ背筋を伸ばしたところで、正直なところ行く当てなどはない。こうなればやはり頼りになるのは足だけと、徐々に色彩を失っていく風景を眺めながら歩き始める。
アルツハイマー‥‥‥。
知らない世界を見ていたら、不意にそんな言葉が頭に浮かび苦笑が漏れた。ただ、その笑いも徐々に薄らいでいく。もしかしたら本当にそうなのかしらと不安になったからだ。それでも足は止まることなく動き続け、いつしか町はずれの川沿いの道を歩いていた。
昼間ならジョギングやサイクリングする人で賑わいそうな整備された道も今は犬の散歩する人と辛うじてすれ違う程度。あと二十分もすればこの辺りはすっかり闇に包まれてしまうだろう。
人影らしきものが目に留まったのは、それから間もなくのことだった。こんな時刻にポツンと道の端にしゃがみ込んでいる。その姿があまりにも寂しく見え、私はそっと声を掛けた。
「こんばんは」
川面を吹き抜ける風に遮られて聞こえなかったのかともう一度声を出す。すると固まっていた置物のような影がビクッと動いた。
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