第78話

「あった」と私は色合いの鮮やかな文字に目を向ける。数十年の違いから記された看板の文字もはっきりとしている。どんな光景が見られるのかと、私はワクワクしながら引き戸に手を掛ける。



 カランコロン♪


 懐かしく、それでいて耳に馴染んだ音が届く。ただ、音色の余韻に心地よさを覚えたのは一瞬だけだった。


「いらっしゃいませ!」


 若々しい声と満面の笑みで迎えられた私はその場で立ち尽くしてしまった。そして咄嗟にギュッと唇を噛む。そうすることで目元の緩みと次に出る言葉を押さえつけた。


(先輩っ!?)


 それでも心の中での声は止められなかった。『花梨』と胸に小さく刺繍されたエプロンを纏った女性は紛れもなく、私の先輩である川島由佳理で、その容姿からして高校生に違いない。カウンターの中に居る雪子さんも、四十代くらいと今の私よりは若々しく見える。


「お一人ですか?」


 尋ねられて、「ええ」と答えたものの、先輩の笑顔がぎこちないのが分かった。無理もない。自分からコーヒーを飲みに来て呆然としているおばさんが目の前にいるのだから。



「あ‥‥ごめんなさい。初めて来たのになんだか懐かしい気がして」


 作り笑顔でその場を凌いだものの、先輩と雪子さんが顔を見合わせているところから、おかしな客が来たということくらい私にも察しが付く。


「アイスコーヒーをお願いします」


 先輩の焼けた肌を見て季節を感じた私はカウンターではなく、奥から二番目のテーブルに向かった。カウンター席からじっと目でとらえ続けているとコーヒーすら喉を通らなくなる気がしたためだ。


 時間帯なのか他にお客さんはいなかった。壁に掛けられたエッフェル塔の絵を眺めながら、さりげなくワンピースのポケットに手を触れる。とりあえず財布の感触が伝わって来たので、ひとまずは皿洗いだけは避けられそうだ。


 ホッと表情を緩めてチラと先輩の方に視線を向ける。が、すぐに顔を戻す。よく遊んでいた頃の先輩はあまりに目の毒で自然と涙腺が緩んで来る気がしてならない。それだけは避けなければと口を強く結ぶ。


 軽やかな足音が聞こえた後、声が掛けられた。


「おまたせしました」


 コーヒーを置く手だけで顔は見られなかった。先輩からすればお客さんの自然の振る舞いに思えたのか、話しかけられることもなく早々にテーブルを後にする。気を取り直してストローを咥えた時だった。


 カラン‥‥コロン♪


 ドアのベルが独特の音を立て男性が一人現れる。思わずその顔を見てコーヒーを吹き出しそうになってしまった。



 潤!?―――。


 グラスに添えた手をうっかり挙げてしまうところだった。私はゆっくり掌の水気をハンカチで拭う。


 出会う頃よりさらに若さを感じさせる潤が私の横を通り抜けて一番奥のテーブルに腰を下ろす。ちょうど私の後ろの席だ。一瞬、視線が交わったようにも見えたが、その瞳からは何の反応もない。見知らぬ相手なのだから無理もない。


 仮に色目でも使ったとしたらさりげなく足でも出して引っかけていただろうか。

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