第79話
潤が腰を下ろしたのを見て、先輩がトレイを持って現れる。距離が近いせいもあって会話は丸聞こえに近い。
「海でも行ってきたの?」
やはり先輩の肌の色が気になったのだろう。声には親しさが若干と友達以上の距離を感じさせた。先輩がそれに答えている。
「後輩とですよ。以前ちょうどお店にいらっしゃった時、来たことがある子なんですけど」
話題の後輩はすぐ近くに居るのよ。
などと言って振り向いたら二人ともどんな顔するだろうか。見た目では自分たちの親よりも年上のおばさんなのだから。それとも、ジョークの効いたおばさんと笑ってもらえるだろうか。
クスッと笑いそうになったタイミングで、ドアベルの音が店内に響く。そして、一人の女性が顔を見せる。それを捉えた私は背筋がゾッとした。
清潔感を漂わせるボブの髪形。記憶は薄らいだものの、聡子さんだということはすぐにわかった。潤を見るや、周りに目もくれずにこちらに向かって来る。当然のことながら目指しているのは私のすぐ後ろのテーブルだ。
一言、二言、潤に何か言って腰を下ろすと、五十センチにも満たない距離から消毒液にも似た匂いが届いてくる。そういえば、聡子さんは病院に勤めていると随分後になって聞いた。
何かビリビリした電気を感じる。穏やかな昼下がりの時間帯になぜか私は妙な緊張を覚えて落ち着かない。こんな狭い空間に居る若い女性二人が、数年後に死を迎えることになることを知っていれば当然だろう。
そう思った私はアイスコーヒーを思い切り吸い上げる。それからゆっくり息を吐き出し自分を落ち着かせた。徐々に後ろの二人の会話が耳に届き出すと、ただの友達という状況は飲み込んでいるつもりなのに、つい潤の耳を引っ張って外に連れ出したくなるから不思議だ。
(もしかして‥‥これって嫉妬!?)
浮気のうの字もない潤に嫉妬した記憶は一度もない。だとするとこんな貴重な経験をさせてもらっただけでも、ここに来た甲斐があると私は頬を緩めた。
聡子さんの声が聞こえる。ショルダーフォンの話をしている。遥か昔に登場した電話だが、今では笑い話にしか聞こえない。
「そのうちもっと小型のが出るんじゃないの?値段も安くなって皆が持てるようになる」
意外と先見の目があるのかしら。ふと聡子さんの考えに私は俯いたまま口角を上げる。
「電話を一人一人持ち歩くんか?そんな時代は夢の夢、百年先だろ!」
しかし、潤の考えを聞いて上がった口が一気にへの字に変わる。余程振り向いて、現代の端末の話でも聞かせてやりたいと思った。頭のおかしいおばさんと思われても困るので、出来ればスマホの現物でも見せたいところだ。生憎、ポケットに入っていないので、やりたくても出来ないし、仮にあったとしても二人の会話に加わる自信はない。
二人が席を立ったのは、それから間もなくのことだった。お印程度に流れる店内の音楽に辛うじて車のドアの音が聞こえる。あれはきっとブルーバードに違いない。故障が増えてきたため、だいぶ前に廃車になってしまったけれど、私と潤を出会わせてくれた思い出の一台でもある。どうせなら記念に一目だけでも見ておけばよかった。
廃車‥‥‥。
巡らせた何気ない言葉にとある人の顔が浮かんだ。私はグラスに搔いた汗をじっと眺めて頭の中を過去へと戻した。
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