第146話
「まさか‥‥‥癌なんて」
どこを見るでもなく潤が辛そうな声を出す。
「私も信じられない」俯いて漏らす声は心なし震えていた。
あまりに急な見舞いで勘繰られては困ると、病院へは次の日曜日に出掛けることにした。車から降りる際、私は自分の両頬を掌で数回叩く。それを横目で潤が見ている。
「大丈夫か?」
潤の声に私は自然に笑みを浮かべた。
「平気よ。潤の方こそ大丈夫?辛気臭い顔しないでよね」
顎を引いて潤が勢いよくドアを開ける。ここからは役者のような演技力が必要だ。互いに見つめ合う瞳からも気持ちは通じていると思った。
「お~っ!休みのところわざわざ来てもらってすまないね」
病室に足を踏み入れた私達にお父さんは満面の笑みで応える。顔色もよく本当に病気なのか疑ってしまうほどだ。ちょうどお母さんも来ていた。
「どうですか?お父さん具合の方は?」
「見ての通りすこぶる元気だ。咳は相変わらずだけどな。この点滴が多少効いているのか前よりは内場になった気がするよ。そんなことよりお母さんから聞いたぞ。決心してくれて俺も嬉しいよ。ありがとう」
私達の顔を眺めてさらに表情を崩す。見ているだけで喜びが伝わって来る。
「良かったわね、お父さん。これから毎日晩酌の相手に困らないわよ」
からかうように私は笑顔を向ける。既にそんな光景でも思い描いているのかお父さんも感慨深そうだ。
「悪いな。俺がこんな様だから引越しの手伝いも出来なくて」
「何言ってるんですか!今回はみんなに楽をしてもらおうと思って引っ越し業者にお願いしましたから、お父さんは早く治すことだけを考えて下さい」
「そうよ!会社の佐々木さんの旦那さんが引っ越しの仕事してるって言うのでお願いしたの」
云々と頷いてからお父さんは点滴が刺さった腕を見つめる。
「これが酒か何かだったらもっと早く治るような気がするんだけどな~」
それを聞いてお母さんも呆れて笑っている。私達も極力自然な苦笑いを見せた。知らない人でも見ればここが病室なのかときっと思うに違いない。そのくらい和やかな時間だったせいか、ひとまずは元気そうで良かったと私も潤も胸をなでおろした。
ただそれも病室から一歩足を踏み出すまで。殺風景な廊下に足音を響かせると途端に口元が引き締まる。
「あんなに元気そうなのに‥‥‥」
車に乗った私はそう呟いて項垂れた。
「そうだな」と潤も言葉少なめだ。帰宅してからは引っ越し業者から届いた段ボール箱に淡々と荷物を詰め込む。実家へ越すのは二週間後。本来はもっと会話が弾んでも良いはずなのに二人ともほとんど無言だった。
翌週の日曜にも顔を見に行った。
「いよいよ来週か。こんなところに居なければ俺も手伝いたいところなんだけどな」
その日が楽しみで仕方がない。皺の増えた顔にさらに皺を刻んで話すお父さんの表情だけでも気持ちは十分伺える。
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