第145話

「それで‥‥‥どこに癌が見つかったの?」


 部位によっては摘出すれば済むことくらい私だって知っている。心の不安を少しでも取り除きたいと尋ねた。一度俯いてからお母さんが顔を上げる。



「肺癌だって」


「肺癌!?そんな‥‥。お父さん煙草なんか吸わないじゃない。潤にだって癌になるからって言ってたのに―――」


 信じられないと私は何度も首を振る。横に居る潤にしても呆気にとられて言葉すら出せないでいる。


「それで治療ってどんな感じになるの?」


 私の声に潤の身体が前屈みになる。お母さんが私達を見つめたままゆっくりとかぶりを振った。初めて見せるような顔に結論を伝えられた気がしたが、黙って頷くわけにもいかず、「だってほら、放射線とか抗がん剤とかあるんじゃないの?」と気持ちのやり場を求めた。


 しばし私の顔を見てからお母さんは一度キッチンへと向かい、湯飲みにお茶を注ぎ始めた。言おうか言うまいか、つかの間の時間に葛藤が見て取れた。



「癌はね‥‥‥肺だけじゃないの」お茶を手に戻ったお母さんが弱々しい声で呟く。


「転移してるんですか?」出されたお茶に一度目を向けてから恐る恐るといった口調で潤が尋ねる。お母さんは潤の目を見つめ顎を引いた。そんな馬鹿なと言わんばかりに、潤は何度か頭を揺らした。


「お医者様が言うには、進行していても全身状態は保たれるから普通に生活は出来るそうよ。特に痛みもないらしいからお父さんも気にしなかったんでしょうね」


 茶碗から立ち上る湯気をじっと私は見つめている。その勢いが徐々に薄らいでいく。なぜかそれが残された時間にも思えた。


「手の施しようが‥‥ってこと?」


「‥‥‥ええ」


 テレビでも点いていたら聞こえないほど弱々しい声だった。私はお母さんの吐息にも似た声にただ力なく俯くだけだった。脳裏にお父さんの笑い顔が浮かぶ。緩みそうになる涙腺を抑えつけて洟を一つ啜った。私達の手前、気丈に振舞ってはいるものの、腫れぼったい目からも辛さは十二分に伺えた。



「‥‥‥お父さんには?」


 私の問いかけにお母さんは素早くかぶりを振った。


「とても言えないわ。だから気管支炎が悪化してるとだけ言っておいたけど‥‥‥。たぶんお父さんも気付いてないんじゃないかしら。抗がん剤でもやって髪でも抜けたらさすがにお父さんもわかっちゃうかもしれないけど‥‥‥。だからあなたたちも見舞いに行った時は辛いでしょうけど普段通りに接してあげて」


「‥‥‥わかりました」


 潤が絞り出すような声で応える。それから、「こんな時になんですが―――」と言ってから私の方に目を向ける。私は目を見て頷いた。


「前にお話しいただいた件なんですが、来月早々にこちらに越して来ようと思っています」


 それを聞いてお母さんの顔に光が射し込んだ。


「そう!それは心強いわ。きっとお父さんも聞いたら喜ぶはず。明日病院に行ったら早速伝えておくわ」


 目がしらに滲む涙は嬉しさと悲しさが混じり合ったものに違いない。出来る事ならこの場にお父さんも加えて報告したかった。


 帰りの車中は重苦しい空気がずっと漂い続けた。

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