第52話

 軽やかな足取りで普段とは逆の方向から家へと向かって行く。徹さんも在宅だったからきっと日曜だろう。お母さんもお父さんもたぶん家にいるはず。もしかしたら二十六歳の私が居る可能性も十分考えられる。


 仮に会ったとしたらどんなリアクションを見せるのか。期待もあったがそれと同じくらい不安もあった。だからなのか家に近付くにつれ足はやや重くなった。



 クリーム色の外壁が視界に入った。結婚するまで長年住み続けていた場所だ。視界に車も映った。お父さんの白のサニー。そして、もう一台。私の愛車のマーチだ。ということは私も家にいる。


 無意識に手が髪に延びていた。若い頃からのトレードマーク。然程乱れもしないショートヘアを整える。


 タイミングを見計らったように玄関の扉が開いたため私の足が止まった。すると中から塵取りと箒を持った女性が現れる。紛れもない。お母さんだ。ボーッと立っていても不自然なので散歩を装い再び歩き始めた。そして、何食わぬ顔でお母さんの顔に視線を送る。今の私とどちらが若く見えるのか。興味の大半はそこにあったかもしれない。


 足音が耳に届いたらしく、箒を動かしながらお母さんがこちらを向いた。


「奇麗になりますね~」


 軽い笑みを浮かべて上品そうな声を出すと、「ありがとうございます」お母さんもコクッと頭を下げて微笑む。何度も見た笑顔だ。だが、その後は何事もなかったかに箒を動かし始めたので拍子抜けしてしまった。


 もう、お母さんたらお腹を痛めた子がわからないなんて、と私はそのふくよかな身体を見ながら心でぼやいていた。


 呼び止められるわけでもなく、疑問そうな表情も見せない。挨拶を交わしてからは振り返りもせずにそのまま歩き続けた。やや、期待外れだったと箒の音が耳に届かなくなったのを機にようやく私は背後に顔を向ける。そして、お母さんもだいぶ目に来ている年頃だからと自らを納得させた。すると自然と笑みが浮かぶ。今や他人事ではないという苦笑である。


 再び足が止まったのは通りの少ない住宅地の道を歩いていた時だ。T字路の角にある電話ボックスを私はじっと見つめている。当時は当たり前の光景だったが、携帯電話の普及に伴いこの電話ボックスは撤去された。私が四十歳くらいの時だったと思う。


 親に聞かれたくない話はこの電話ボックスまで来た。懐かしい思い出が視界の中の映像と重なる。



 初めて八神さんのアパートに電話したのもここだ。私は思わず脳裏の奥にある引き出しを開けた。




―――「プーーッ♪あっ‥‥‥もしもし」


 突然の音に掛けている私自身がビクッとなった。互いを確認した後ですぐに八神さんは驚いた声をあげる


《ひょっとして公衆電話?》


 相手にも音が聞こえる。私は久しぶりだからと十円しか入れなかった理由を話した。


《仕事の帰り?》

「いえ、あの‥‥家の近くなんです」


 それならば家から掛ければ良かったのに、と八神さんは穏やかな声で言って笑った。


「あ‥‥でも、それだと家族に聞かれそうだから―――」

《聞かれるとまずいような話ってことかな?》


「いえ‥‥別にそんなこともないんですけど‥‥」


 変に緊張しているのが自分でもわかる。仕事の応対とはまるで違った口調になっている。落ち着こうと聞こえないように深呼吸した。それからこの間の食事のお礼を言った。

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