一秒の解明

ちびゴリ

第1話

 瞼は思いのほか軽かった。それから無機質な天井を見上げながら思った。


 仄かな香りが漂ってくる淡い色の花模様でも描かれていたなら、年々薄らいでいく女心という引き出しを開けてくれただろうに、と。そんな辛うじて残る女性の思いが北極へでも向かうような感覚を解いたのか、私は声と同時に起き上がった。


「ヨイショ」


 これも歳のせいかしら。すっかり何かするときの口癖になってしまった。でもこれが不思議。一言発するだけで身体はスッと動かせる。つい今しがたまで西洋の鎧を纏ったかに腕や足どころか指先一つ動かせなかったのだから。


 やっぱりこの言葉は高齢になるにつれ魔法の呪文と化すらしい。なんだかすごく身体も心も軽く感じる。


 あるいは掃除の行き届いた空間がそう思わせるのかもしれない。とにかく清潔という言葉が相応しく、まるで長年の主婦業から解き放たれたような気分にさせてくれる。出来れば我が家も豪邸とまではいかないにしてもハウスキーピングなんて洒落た人のお世話になりたかったものだと口角を上げた。


 それとなく顔を左に向ける。視線の先には男性がポツンと一人、色気のない安っぽい椅子に腰を下ろしている。難しい表情をしていたが、見慣れた顔だったため、一瞥しただけで視線は腕の時計に向かった。


 確か勤続二十年とかで戴いたと聞いた覚えがある。それが高級か否かは別として文字盤を目にした私は思わず首を傾げた。なんだか秒針が止まっているようにも見える。あるいは老眼のせいかとさらに顔を近付けると、針は思った通り五十九秒を指したまま動いていない。



 時刻は三時十九分だった。


 あとで時計屋さんにでも行くように話そう。私は屈んだ背筋を伸ばす。


「ちょっと行ってくるわね」


 振り向きざまに男性の背中に一声掛けてみたものの、これといった反応は無くじっと俯いたまま。これも自然に培われた距離かしら、と聞こえない程度に鼻で笑った。


 履物も見当たらなかった。そのため私はひんやりした床をペタペタと歩いてドアを潜り抜けた。歩き始めた通路も同様で人声さえも耳に冷たく響いてくる。


 出どころも掴めぬ声を耳にエレベーターを探していると、ちょうど前から人が歩いて来た。話すきっかけにでもなれば。そう思って会釈をしてみたが、私のことなどお構いなしに過ぎ去っていく。素足で歩く人を気にも留めないなんて余程忙しいのだろう。


 顰めた眉を戻した時、視界に扉の開いたエレベーターが映った。速足で乗り込んだ私はボタンを押して一階へと降り、人々の視線を集めることも無く出入り口から外へと出た。 


 その直後、容赦ない陽射しに思わず目を伏せた。どのくらいの温度差があるのか軽い眩暈すら覚える。


 これも歳のせいかしら。ついこんな暑さをものともしない若さが懐かしく思えた。


 停車しているタクシーにも目もくれず、辺りを眺めるように歩いていた私は、どこからともなく聞こえる音とその感触に立ち止まった。スッと足を上げる。不思議なこともあるものだ。知らない間にサンダルを履いている。

 

 黒を基調としていて甲に花を施してある。それに味も素っ気も無い布切れがサラッとしたカット素材のワンピースに変化している。淡い色合いのグリーンはなんとなく見覚えがある。


 いつの間にか歳を重ねて魔法でも使えるようになったのかしら。そう思ったらクスッと声が漏れた。


 いずれにしてもこの方がお洒落で良い。

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