第72話
掛け布団を捲り上げてお父さんの二の舞にならぬよう八神さんの身体を支えながら横にさせていく。思った以上に酔っぱらった身体は重く、私一人の力では役不足だったようだ。うまく行ったのは途中までで最後はよろけるように二人で布団に倒れ込んでしまった。
すぐ目の前には八神さんの顔。驚きよりも別の何かが勝っていたのか、知らぬ間に私の瞳は閉じていた。それとほぼ同時に柔らかくも固くもある感触が私の唇に伝わる。夢を見ているような気分だった。思った以上に長かった気がする。
唇が離れた途端、気まずい空気を感じ視線を逸らせた。
「ごめん。こんな酔っぱらってる時に‥‥」
私は黙って首を振る。八神さんは自分に非があるとばかりに言ってくれたけど、なんとなくわかっていた。自分からキスをしたのかもしれないって。
「おやすみなさい」
恥ずかしさをごまかすようにして私は腰を上げる。部屋の引き戸を閉めてから温もりが冷めない唇にそっと指先を当てニコッと微笑んだ。
キスは三人目。
ファーストキスは先輩に奪われた。ほんの御ふざけなんだろうけど、ファーストキスには違いない。それから海で知り合った涼ちゃん。男性は八神さんで二人目だ。
自然を装って一階へ降り、後片付けのお手伝いをしてからお風呂に入った。いつも通り鍵はしているけど、同じ家の中に八神さんがいて、こうして裸になっていると妙に落ち着かない。
いきなりトントン‥‥なんてことが‥‥。
お風呂に浸かりながら扉の方に目を向ける。いくらなんでも有り得ないと、つまらぬ妄想にピリオドを打とうとお湯を顔に掛けた。それでも普段とは何か違うのだろう。鏡に映る自分の顔がいつもの自分じゃない気がする。
お母さんに、「おやすみ」と一声かけて私は二階へと上った。私の部屋は右側。その狭い廊下を挟んだ左側の部屋に八神さんは眠っている。あるいはまだ起きているのだろうか。それとも布団ははだけていないだろうか。体裁の良い口実を頭に浮かべ、そっと引き戸に手を伸ばしたものの、触れる寸前でその手が止まった。急に気恥ずかしくなった私は自分の部屋のドアを引いた。
「休みの日にしては早起きなのね」
着替えを済ませた私を見るなりお母さんが怪しく笑う。その理由も了解済みと言った感じだ。いつも休日の朝はパジャマでテーブルに着く。ただ、今日ばかりはそうはいかない。朝食のお手伝いをして準備がある程度整ったところでお母さんが私に言う。
「さ、二階にいる方を起こしていらっしゃい」
随分と遠回しの言い方をすると疑問そうな表情を浮かべると、「ほら、未来のなんとかさん」お母さんは目を大きく見開いて私をからかう。もちろんすぐに振り返った。朝から赤い顔は見られたくなかったからだ。
スッと引き戸を開ける。八神さんはまだ寝ていた。あれだけ飲んだのだから無理もない。
「おはよう」
私は枕元近くにしゃがみ込んで優しく声を掛ける。「おはようございます」と言わなかったのはきっと昨夜のキスの威力。初めて見る寝顔も新鮮に映った。
やがて八神さんが眠そうに目を開ける。そして私を見て「おはよう」と、しゃがれた声を出す。
新婚の朝ってこんな感じだろうかと、私は笑顔で首を傾げて見せた。
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