第73話
それから何気に視線を移す。布団の脇に畳まれたズボンがあった。寝る前にきちんと畳んだのだろう。そう思った時、八神さんが勢いよく起き上がった。その動作に私は、「下で待ってるから」と言って慌てて腰を上げた。
―――「男の人の朝って凄いことになっているのよ」
不意に昔先輩から聞かされた話を思い出してしまった。何もこんな時に思い出さなくてもと思ったけど思い出してしまったものは仕方がない。ニヤニヤした先輩の顔が浮かぶ。
初めて泊まった翌朝にそんなのを見たりしたら、ご飯の時にお味噌汁を溢してしまいそうだ。余計な話を吹き込んだりするんだから。私は階段を下りながら顔を掌で扇いだ。
「おはようございます。昨夜はご馳走様でした」
ダイニングに顔を見せた八神さんはお母さんに声を掛ける。お母さんも笑顔で応える。タオルを手に洗面所に案内すると十分くらいで八神さんが戻って来た。
テーブルの上には朝食が用意されていて、ご飯とお味噌汁が明るい部屋の中で湯気をあげている。他は焼き鮭に卵焼きと漬物。日本の朝食定番メニューだ。
「よくお休みになられました?」
「ええ。あのあとすぐに―――」
照れ臭そうに頭を下げた後で八神さんはテーブルの配膳を見て、オヤッという顔を見せた。
「旦那さんはどうされましたか?」
「お父さんはベロベロだったでしょ。だからゆっくり寝かせておこうと思って」
和室の方に一度視線を走らせてから八神さんは私達の顔を見た。
「さ!冷めちゃうとなんだから気にせずに召し上がってください」
「いただきます」一つ頷いてから箸を取ると、
「こういう朝ごはんは何年ぶりかな~」
お味噌汁を一口啜って八神さんは、しみじみと呟いた。
「お一人の生活じゃ朝なんかはお忙しいんでしょうね。でもたまにはご実家とかにも行かれるんでしょ?」
「まあ、行くことはありますが、泊ってくることは無いですからね。だから朝は大抵パンとかで済ませちゃいます」
料理好きな男性は居るだろうけど、朝から魚を焼くほど時間にゆとりのある人は少ないはず。私は美味しそうに食べる八神さんの横顔を見ていた。
「じゃ~、いずれは朝ごはんを作ってくれる人が欲しいわね~。ねぇ~、梨絵ちゃん!」
お母さんに突然振られてお味噌汁を溢しそうになってしまった。そうでなくても先輩の一言を思い出してからは、いつ溢すのではないかと気が気ではなかったのに。
「良かったらお茶碗出して」
幸せを交えた目でお母さんを睨んでから、私は受け取った茶碗を手に腰を上げる。ここは一旦落ち着かせなければ。と言ってもウキウキしているのが自分でもわかる。ついついご飯を大盛にしてしまった。
「あら、まぁ~!随分とサービスがいいこと」
お母さんに冷やかされて、恥ずかしくも幸せな空気がテーブルの上を漂っただろうか。お味噌汁は八神さんが帰ってから飲もうとその時思った。
「じゃ、旦那さんの方にはくれぐれも―――」
ジャンバーを羽織った八神さんが玄関で頭を下げる。私は車の近くまで見送りに行った。十二月の朝とあって身が縮こまるほど冷えている。ブルーバードの前のガラスは雨が降った後のように濡れていた。それをワイパーでひと拭きして、八神さんが軽く手を挙げる。
この日以来、スーパーでの待ち合わせは無くなった。
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