第30話

「梨絵さんとおっしゃいましたよね。あの、つかぬ事をお訊きしますが『花梨』ってお店は‥‥ご存じでしょうか?」


「ええ。何度か行ったことがあります。駅前のお店ですよね」


 店名に懐かしさが蘇り私の口元が僅かに緩んだ。仕事を始めてからは顔を見せなくなったが、忘れることの出来ないお店には違いない。


 私の言葉を耳にしてから八神さんのカップを持った手は途中で止まったままだ。心なしそれが揺れているようにも見える。


 零してはいけないと思ったのか八神さんはソーサーの上に戻した。リビングにカツンと音が響く。


 あるいは私からの次の言葉を予想していたのかもしれない。



「学生の頃ですが、そこで先輩はアルバイトしていたんですよ」


 疑う余地はないという目を八神さんは私に向けた。その瞳に映る僅かな光に私も確信という文字を読み取った。




「その先輩というのは、川島‥‥‥由佳理さん、ですね?」


「お母さぁん!」


 八神さんの口から出た名前に私は思わず叫んでお母さんに顔を向けた。お母さんは口を半開きにしたまま黙って視線を八神さんに集中させる。きっと私の口も同様だったはず。叫んでからはしばらく声が出せなかった。


 蚊帳の外はお父さんただ一人。先輩の死や、お付き合いしていた人がいることは知ってはいるものの、八神さんという名前はお母さんにしか話していない。


「実は運転していて梨絵さんに気付くのが遅れたのは、その人のことを考えてたと言いますか―――」


 それを聞いて私の瞳はさらに一回り大きくなった。


「梨‥‥梨絵ちゃんも、お母さんもこちらの方を‥‥‥ご存じだったのか?」


 カップを口の前で止めたまま、お父さんは三人に視線を走らせる。ここまでのやり取りに僅かながら状況を把握して来たのだろう。


「いえ。お会いするのは初めて。でも梨絵ちゃんはひょっとしたらお葬式でお見掛けしているんじゃない?」


 私はゆっくりとかぶりを振る。それもそのはず、あの時は混乱しすぎていて誰か来ているかなど見ている余裕などなかった。涙を拭うのに追われ祭壇の写真すらぼやけていたのだから。辛うじて覚えているのは肩を震わせながら項垂れているお兄さんの姿と、喪主の挨拶を代わりに引き受けた『花梨』のママの嗚咽に近い声だけ。


 突然、その映像が脳裏に浮かび私の瞳が熱を帯びる。それを見られまいと俯いたら手の甲に一粒の滴が落ちた。


 口を真一文字に結んだ八神さんも何かを必死で堪えているように見えた。リビングがすっかりお通夜と化した。一度洟を啜ってから明るい口調で言ったのはお母さんだった。


「でも、考えたら不思議なご縁よね。二人がまったく同じ人のことを考えていたんですから」


 私も同感だった。恐らく八神さんも不意に緩んだ表情から同じに違いないと思った。


「もしかしたら‥‥‥由佳理さんが引き合わせてくれたのかしら?」


 冗談めいたお母さんの台詞もなぜか軽く笑い飛ばせなかった。偶然にしては出来過ぎている。まるで小説か映画の世界だ。しかし、その反面、先輩ならやり兼ねないとも思った。



(梨絵ちゃん、あとはお願いね)


 そんな声がどこからともなく聞こえて来そうだ。

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