第31話

「それにしても世の中には不思議なことがあるもんだな。そうそう、八神さんは今おいくつなんですか?」


「はい。ちょうど三十歳になりました」


 今一つ会話に加われなかったお父さんは思いついたかに口を開く。こんな時の父親は調子外れの発言が多かったりするものだが、今回はなんともしがたいような空気をうまく攪拌してくれたような気がする。


「三十歳かぁ~」と独り言のように言ってお父さんは腕を組む。その姿は次の言葉を模索しているようにも見えた。あるいは自分が三十歳の時のことでも思い出していたのだろうか。


 それから少ししてお父さんは私の顔をじっと見つめた。


「え?なに?」


 あまり見たことのない目つきに声をあげると、お父さんは何でもないと目を伏せた。それを見ていたお母さんは思い出したように口を開く。


「しっかりなさってるわよね。ということはもうご結婚も?」


「いえ、まだ独り者です」と照れ臭そうに八神さんは頭を掻く。どこかぎこちないお母さんの声音に違和感を抱きつつも、その答えになぜか私は胸を撫で下ろしてもいた。


 俯きながらも穏やかな表情をしていると自分でも思った。


 八神さんが帰ったあと、私は手渡された名刺をじっと眺めた。



―――聖南産業 営業部主任 八神潤やがみじゅん―――。


 苗字を聞いただけでもあの驚きようだ。お母さんが下の名前まで声に出していたらどうなっていただろうか。


(主任さんなんだ‥‥)


 その夜、私は事あるごとに名刺を眺めていた。





 八神さんが再び顔を見せたのは一週間後の十一月二日のことだった。


 チャイムの音にお母さんが小走りで玄関に向かって行く。同じような時間帯で身なりから恐らく仕事帰りなのだろう。


「梨絵ちゃん!八神さんよ!」


 既に帰宅していた私はお母さんの声に素早く腰を上げスタスタと玄関に向かった。その足取りを見て八神さんは安堵の表情を浮かべる。濃紺のスラックスにYシャツにネクタイ。その上に社名の入った上着を纏っている。


 晴天に似つかぬものを八神さんは手にしている。真新しい傘だ。そして、包装された箱が一つ。


「経過が良いみたいで良かった」


 視線を一度足元に向けてから、真っ赤な傘を私に差し出した。


「この前、ダメにしちゃったんで似たような傘を探してみたんだけど―――」と前振りしてから気に入らなければ違うものと交換してくるからと付け加えた。



「そんなことしてもらわなくてもねぇ~!」


 恐縮そうにしながらお母さんは私と八神さんの顔を交互に見ている。


「そうですよ~。悪いのは私の方ですし、安物の傘ですから」


 真っ赤な傘が一瞬、花のようにも見えてしまい、動揺したのをごまかすように明るく振舞った。それから冷静に傘を眺める。確かに一見すると私の傘に似ている。しかし、明らかにこちらの方が高級品だ。せっかくの厚意を無駄にしては。そんなことを考えている間に私の手が傘の重みを感じていた。


「も~っ!受け取っておいて黙ってるの、梨絵ちゃん!」


 お母さんの一声に私は慌てて礼を述べる。またボーッとしてしまった。


 ただ今回は先輩のことではなく、これをどこでどういう思いで購入したのか、じっと傘を見つめながら考えていたのだ。

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