第32話

「それからこれは―――」


 反対の手にあった菓子折りらしき包みをお母さんに手渡すと、「それじゃ、これで」用件も済んだとばかりに八神さんは踵を返そうとする。それを見てお母さんと私の手が待てとばかりに同時に挙がった。



 お父さんが帰宅したのはその一時間後くらいで、敷地内に止めた車と見慣れぬ革靴に誰が来ているのか察したようだ。ダイニングに顔を見せるなり「いらっしゃい」と穏やかな笑みを浮かべる。八神さんはすぐに立ち上がって頭を下げた。


 こんな挨拶一つでも人柄が伺えるものだと、着替えを済ませたお父さんは腰を下ろすなり目を細め、缶ビールのプルタブの音を響かせる。


「慌てて帰ろうとしたからお忙しいのって訊いたのよ。そうしたら家に帰るだけだっていうから、だったらご飯でも一緒にどうって―――」


 軽快な足取りでお母さんは数メートル先の距離を行き来する。嬉しいときに見せる歩調だ。もちろん私も一緒にお手伝いした。料理をテーブルに載せる時、チラッと八神さんと視線が合ったりする。


 ずっと見られているような気がしてなんだか気恥ずかしい。



「それにしても素敵なお家ですね」


 八神さんも視線のやり場に困ったように壁や床に目を向けた。


「梨絵ちゃんが小学生くらいまでは借家住まいで、年頃になって自分の部屋も欲しいだろうからって中学に入るのを機に思い切って建てたんだけど―――」


 云々と頷きながらも八神さんはお父さんの話に聞き入っている。それから視線を下げ、「このならのフローリングも素敵というか、やっぱり無垢は良いですね」

 

 八神さんの声にお父さんの目尻も下がる。


「さすが建材を専門にしてるだけのことはあるね。無垢か合板かなんてパッと見でわかるんだから」


「専門と言いますか、仕事で見たり触れる機会が多いだけですけどね」


 頭に手をあてて八神さんは微苦笑を浮かべる。その後も床材だけでお父さんとの会話は弾んでいた。


「そうそう、八神さんに頂き物したんですよ。梨絵ちゃんの傘とお菓子」


「玄関にあった新しいやつか。なんだかいろいろ気を遣わせちゃって申し訳ないね。そもそも悪いのは梨絵ちゃんの方なんだから―――」


 そこで一旦言葉を切り、飲み始めていたグラスに目を移す。



「八神さんは晩酌の方は?」


「毎晩ってほどでも‥‥‥。実は傘を渡した後で飲みに行こうかとは思ったんですが」と八神さんは照れ臭そうに笑った。


「そう!じゃ~、せっかくだから飯のついでにどうだい?」

「どうだいって、お父さん。八神さんはお車なのよ」


 すぐさまキッチンからお母さんの声が届く。


「そんなことはわかってるよ。こんなことまでしてもらって晩飯だけじゃ申し訳ないだろ。飲む場所が変わっただけで家に代行を呼べばいいんだから―――」


 言い終わる途中にもうお父さんはグラスを催促していた。その様子にやや戸惑った表情で八神さんは私を見る。


 断るに断れない。でも不快そうではない。だから私は目で付き合ってあげてと訴えた。


 グラスを手にしたお母さんもたぶん同じ気持ちなのだろうと思った。

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