第29話
「今、温かいコーヒーを淹れますから」
お尻半分程度と浅く腰かけた男性に一声かけてお母さんはキッチンへと向かう。男性の正面にお父さんが座っていて、その斜め右の席に私はゆっくりと腰を下ろす。その際、歪んだ表情になってしまったらしく、痛みはどうかと男性は乗り出すようにして労ってくれた。
「大丈夫です。このくらいなら明日には普通に歩けると思いますので」
そこへお母さんがトレイを持って現れた。
「もぉ~、悪いのはこの子なんだからそんなお心遣いは―――。もうじき二十五になろうっていうのにボーッと道路に出ちゃったりして」
「もう、お母さんったら歳は言わなくてもいいじゃない!」
「あら?まだ言っても恥ずかしくない年齢でしょ?」
二人のやり取りに少しだけ男性の表情が和らぐ。それを合図にお母さんが目の前にコーヒーを差し出すと、立ち上る湯気を眺めて男性は軽く頭を下げた。それぞれがコーヒーを啜ってから思い出したように男性は何かを取り出す。
名刺だった。
「挨拶が遅くなって申し訳ありません。私、こういうものですが、お嬢さんが通院とかされるのであれば費用はすべて私が御用立ていたしますので―――」
名刺を受け取るお父さんの横でお母さんは大袈裟なくらい手を左右に振って見せる。
「医者どころか少し痛い思いをするくらいがこの子には良い薬なのよ。だからご心配はいりませんから―――」
そこで一旦言葉を切り、お母さんは穏やかな口調で続けた。
「何年も前になるんですが、ちょっと不幸がありましてね。それから時々ボーッとするようなことがあるんですよ。だから車とかも危ないのでバスで通勤させるようにしたんですが‥‥‥」
視線のやり場に困ったようで男性は目を伏せた。身内の恥とも取れる話だったが、私も口を噤んでしまった。少し眺めた名刺をお父さんがお母さんに手渡す。すると、チラッと見ただけで顔が変わった。
「
名前の響きに私は思わず目を見開いて八神さんを見ていた。二人の反応に何事かと八神さんは視線を泳がせる。突然なのだから無理もない。
「あっ‥‥‥驚かせちゃったみたいでごめんなさいね。聞き覚えのある苗字だったものですからつい―――」
八神さんの様子に慌ててお母さんが言葉を繕った。ペコリと頭を下げ私も続けた。
「ええ。たまたま同じだけなんでしょうが‥‥‥」
「そうでしたか。どこにでもあるような苗字じゃないですからね」
単なる偶然とわかり八神さんは苦笑の中に安堵を織り交ぜた。
「実は同じ苗字の方とお付き合いしてた人のことを歩きながらと言うか―――。私の先輩だった人ですが‥‥‥」
私は対照的にやや陰りのある表情でポツリと漏らした。
「先輩だった‥‥‥というとその方は?」
すると言葉の語尾が気になったらしく、八神さんは当たり障りのない口調で訊いてきた。
「亡くなったんです‥‥‥七年前に‥‥」
私がそう呟いた途端、八神さんの瞳が大きくなった。
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