第28話

 走り出して間もなく、私はセカンドバッグから出したハンカチで顔や髪を拭った。男性もどこからか出したタオルで同じようなことをしている。土砂降りとまでは行かないまでも雨の量はそれなりに多いためワイパーは休むことなく動き続けている。


「医者に診てもらった方がいいんじゃないですか?」


「平気です。ちょっと挫いただけですから」


 自分でもたいしたことは無いと思っていたので、結局、家に送ってもらうということで話は落ち着いた。車内で男性は何度も謝った。私もそれに負けないくらい謝った。


 フロントガラス越しに映るぼんやりとした街並みを見ながら、つい先ほど起きたことを思い返していたりした。



 仕事を終え家に帰ろうと駅の方に向かっていたことまでははっきりと覚えている。しかし、なぜそこを歩いていたのかがわからなかった。


 家に着き男性に肩を借りるようにして玄関の扉を開けるとお母さんがいつもの調子で顔を見せた。だが、その表情はすぐに一転し驚きの声をあげた。あまりの声だったせいか、休日で家に居たお父さんも玄関に姿を見せた。


「梨絵ちゃん!?何があったの?」

「そんな大声出さないでよ。ちょっと足を挫いただけなんだから」


 男性から離れお母さんの身体に寄りかかった時だった。男性は湿り気のある玄関の沓脱に膝と手を付き土下座をした。


「この度は申し訳ございませんでした。お嬢さんに怪我をさせてしまいまして、すべて私の不注意が原因です」


 その光景に足の痛みも飛んでしまった。


「こ‥‥困ります。悪いのは私の方なんですから」

 慌てふためく私にお父さんもお母さんもどこを見て良いのか困った様子だ。


「ど‥‥どういうこと‥‥なんだ。梨絵ちゃん」

 戸惑いを隠せないお父さんはしどろもどろだ。


 我が家は両親共に私を「梨絵ちゃん」と呼ぶ。高校生になった時に、お父さんが少し大人になったのだからと「梨絵さん」と言った時には慌てて拒否した。あまりにも他人行儀な感じがして違和感に押しつぶされそうになったからだ。ただ、小さいときは兎も角として今の年齢でおまけに人前だと少々気恥ずかしく感じる。


 私は続けた。


「駅に向かおうとしてたんだけど、ボーッと考え事して道路を渡ってたみたいで―――」


 説明した途端、お母さんは呆れ顔になった。


「じゃ~、悪いのは一方的に梨絵ちゃんじゃないの!」

「だから、さっきから悪いのは私の方だって―――」


「いえ、怪我をさせてしまった原因はボーッと運転していた私ですから―――」


 押し問答のような光景を見ていれば状況を把握するのは容易ではないだろう。それでもいつまでもこんな格好をさせているわけにもいかないと、お父さんとお母さんは揃って男性に腰を上げるよう促し、そのままリビングダイニングに案内した。映っていたテレビをお父さんが素早く消す。


 私はお母さんと共に一度部屋に行き体裁の良い部屋着に着替えてから、鏡の前でブラッシングを始めた。


「なんだか随分念入りじゃない?」


 いつもよりも長かったのか、お母さんはそう言って私に疑問そうな目を向ける。


「雨でボサボサなんでちょっと大変なだけ」


 調子外れな音を響かせながらお母さんと階段を降りて行くと男性はまだソファーの脇に立ったままだった。頻りに座るようお父さんが声を掛けている。それを見てお母さんも声を揃えた。


 ようやく男性は腰を下ろした。

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