第160話

「信号無視だって」


 どこからともなく聞こえた声が胸に早鐘を打たせる。咄嗟に見たくないと思ったものの、たどたどしい足取りは止まらない。まるで何かに引き寄せられているかのようだ。


 全容を捉えた私の瞳が大きく見開いたのは、人が途切れた所から顔を覗かせた時だった。


 路上に停止している車の先に人が横たわっていて、それを数人が見守るようにしている。だが、私の目は一点を見つめたまま微動だにしない。



 淡い色合いのグリーンと短い髪。僅かだが顔も見えた。




(あれは‥‥‥私‥‥‥だ)


 そこで記憶が一気に蘇った。


 潤の定年祝いとして街のケーキ屋さんに出掛けた。せっかくだからと久しぶりにお洒落をした。そんな私を見て潤も驚くに違いない。ウキウキと心を弾ませ軽いステップを踏んだ。


 しかし、そこから先が思い出せない。そこで私は眉間に皺を寄せた。





(あれが私だとしたら、この私はいったい!?)


 今一度カット素材のワンピースに視線を移した時だった。



「梨絵~~っ!」


 もの凄い声が思考のすべてを遮断した。慌てて顔を上げて辺りを伺う。


(潤の声だ。どこに居るの?)


 あちこちに目を凝らしているうち、見ている世界が色を失い白く変わって行った。





 それから間もなく真っ白い世界に何かが浮かび上がって来た。潤の背中を捉えた。何かに覆いかぶさるようにして肩を揺らしている。たぶんあればベッドだ。次第に音も聞こえて来た。嗚咽を漏らす潤がもう一度声をあげる。


「梨絵っ!」


 その声を聞きながら私は覚束ない足取りで横に数歩移動した。直後、私の瞳が大きく見開く。潤の陰になって見えなかったもの。それは紛れもない私自身だった。


 そこでハッと気付いた。最初に起き上がったのはこの部屋だったと。あの時は何も気にせず出て行ったけれど、今ならはっきり病室だとわかる。


 ゆっくりベッドの先に視線を移すと医師と思われる男性と女性の看護師が立っていて、何かをポケットに仕舞いこんでから男性が時計に目を落とした。



「三時‥‥二十分‥‥ご臨終です」


 咄嗟に私は潤の腕時計を見た。前回見た時間も覚えている。確か三時十九分、それも五十九秒で止まっていた。壊れたか電池切れかとあの時は思ったけれども、今は先程の言葉通りに三時二十分丁度を指し示している。そして秒針が動き出す。



 一秒‥‥二秒‥‥三秒‥‥。


 つまりは私のあの長い夢と言うのか旅のような出来事は、一秒の間で繰り広げられたってこと。



 たった‥‥‥一秒。とても信じられない。


 そう思った時、私の肩をポンポンと誰かが叩いた。呆然としていたからか然程驚きもせずに振り返ったが、きっと瞳も口もこれ以上ないほど大きく開いていたに違いない。


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