第96話
―――「割と急な話だったのによく宿が抑えられたな」
「も~っ、私がどこで働いていると思ってるの」
得意そうな表情を見せると、ハンドルを握る潤も納得したように頷く。
「ホテルじゃなくて旅館で良かったのよね?」
言い終えてから私はつい最近の職場のシーンを思い浮かべる。
「それではよろしくお願いいたします」
受話器を置いて気付かれないように息を漏らすと、近くに居た同僚の
「梨絵先輩、今のプライベートの予約じゃないんですか?」
美咲は私よりも年齢は二つ下の二十三歳。たまたま高校が同じだったということもあって私のことを梨絵先輩と呼ぶことがある。もちろん接客中などはきちんと苗字で呼ぶ。
「え!?どうして?」
「だって、仕事の時と顔が違う感じだったから」
何年も一緒に仕事をしていると些細な違いも気付かれてしまうようだ。私は正直に話した。
「へ~っ!温泉に泊まりなんて良いな~。あっ!梨絵先輩、その指輪!?」
控えめに振舞っているつもりでも、そこはやはり女の子と言うか女性。私の薬指のエンゲージリングに目が留まったらしい。
「ちょっとね」
「ちょっとって、わたしそんな話全然聞いてなかったです」
こんな話は黙っていても知らずに伝わるものだと、私はあえて誰にもまだ話してはいない。それでもこれで職場の全員が知ることになるのだろうと思った。
その先陣を切って現われたのが二十年のキャリアを持つ
「そういうのはさりげなく着けるところに女の価値が出るものなのよ。梨絵さん。おめでとう」
佐々木さんは小声で言って目を細める。お礼を述べてから私はその指輪を微笑ましく見つめた。
「やっぱりそういうのって給料三ヶ月分なんですか?」美咲が訊いてくる。
女性なら気になるのは当然だろう。
「高いのは要らないからって」
数回首を横に振ったあとで美咲の顔を見た。納得したようなしないような表情で美咲はもう一度指輪に目を向ける。
「梨絵さんは倹約家ね。私もそれでいいと思う。三ヶ月分なんてのは企業の広告のキャンペーンで言われたことなんだから。バレンタインにチョコを送るようなのと一緒」
得意そうに説明してから佐々木さんは苦笑を浮かべる。
「でもその策略にまんまとうちは乗せられちゃって。それでうちの旦那なんか三ヶ月分だったなんて言って、未だにお小遣いをせびる口実にしてるんだから―――」
なるほど、と美咲と私は佐々木さんの話に耳を傾ける。当然のことながら私の婚約の話が知れ渡ったのはその日のうちだった。
潤の声が前を見る私に届く。
「ホテルは会社の忘年会とかでよく使うから。風呂もでかいし、館内の施設も充実しているんだけど、どこも似たり寄ったりで―――」
普段仕事で目にしている私も同じような考えだった。宿泊代やネームバリューの違いくらいで、ある程度のホテルはどれも代わり映えはしない。ただし、部屋数もあってお勧めしやすい、という利点があるのもホテルの良いところだ。
「着いた旅館の床がギシギシ鳴るようなところだったらどうする?」
「鴬張りだと思うから大丈夫!それこそホテルでは味わえない風情ってもんだろ」
むしろそんな旅館を望んでいるように潤は楽しそうに笑う。
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