第137話

「おかえりなさい。随分早かったのね」


 声を弾ませ潤を出迎える。一瞬、私に笑顔を見せたものの、いつもと違ってぎこちない。仕事で何かミスでもしたのかとその時は思った。しかし、横を通り過ぎた時にただならぬ気配を感じて顔を向けると、潤も足を止め振り返った。そして一言呟いた。



「今夜‥‥‥ちょっと話がある」明かりが消えたような寂しい目をしていた。


 食卓を囲んでいても会話らしい会話はなく聞こえるのは互いに食事を摂る音だけ。気軽な話ではないと察していたので、私はじっと潤からの言葉を待つしかない。お陰で味もほとんどわからなかった。


 重苦しい雰囲気に耐えかねて口を開きかけた時だった。



「俺の‥‥‥子供は産めないよ」


 俯いたままで潤が弱々しい声を漏らした。漏らしたというよりもやっと絞り出した感じにも聞こえる。


「え?‥‥‥どういうこと?」


 言っている意味がわからず訊き返すと、潤が顔を上げた。


「梨絵が医者になんて話していたから、その前に俺がって、先月医者に行って検査してもらったんだよ。それで今日の仕事を早くあがって結果を訊きに行ったんだけど‥‥‥」


 そこまで言って潤は笑いながら顔を歪ませた。見たことのない顔だった。


「無精子症だってさ。いわゆる種無しってやつだ」


 自嘲な笑みとでも言うべきか。それを見て私は言葉を失った。何か言わなければと思っても声が出せない。


「治療法もいくつかあるらしいんだけど、よくよく聞いてみると俺の場合、可能性は限りなくゼロに近いって」


「ゼロ‥‥‥でも近いってだけでゼロじゃないんでしょ?」


 僅かな灯りにすがるように私は訊いた。心なし声が震えているのが自分でも分かった。


「近いって言うのは患者への配慮なんだろう。そこから先は子供の話じゃなく夫婦でどう生活していくのが良いかって言われたけど、あまり耳に入って来なかったな。これじゃいくら頑張ってもダメなはずだ」



 残さず食べる潤が茶碗に半分ほど残している。気が付けば私も同じで食がピタリと止まっていた。頭の中ではいろいろ考えている。それでも口から言葉は出ず、重苦しい沈黙が二人を包みこむ。一つ息を吐いてから潤が私を見て言った。



「もし‥‥‥梨絵がどうしても子供が欲しいのなら。考えてくれたって構わないよ‥‥‥離婚を」


 時が止まった気がした。周囲の音が耳から消え去ると同時に、私は立ち上がって潤の方に身体を寄せていた。


 パシッ!という音が部屋に響く。


 ほとんど無意識だった。頬を張られた潤は当然だと言わんばかりに目を伏せた。


「ふざけないでよっ!」


 怒りと悲しさで怒鳴り上げた声は大きく揺れていた。溢れ出た涙が食卓の上にしたたり落ちた。それを拭うこともせず私は唇を強く噛んだ。


「子供を作るために結婚したんじゃないわ。出来ない夫婦だってたくさんいるじゃない。そんなことで私と別れたいのっ!」


 力なく私は椅子に腰を落とした。やり場のない気持ちから手に箸を取り残ったご飯を口に運ぶ。時折目を拭い洟も啜る。潤は一点を見たまま固まっていて、音を出しているのは私だけだった。


 潤の視線を感じて涙ながらに私は睨んだ。

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