第152話

「梨絵ちゃん‥‥‥うちに来てくれて‥‥‥ありがとう」


 やっと聞き取れるかどうかの声だった。私はお父さんの髪を優しく撫で病室をあとにした。



「梨絵ちゃんと潤さんが家に来てくれたことが、お父さん嬉しかったんでしょうね」


 病院での出来事を聞きお母さんも目を細める。


「思いがけず話が出来て私も良かった。このところ行くといつも寝てばっかりだったから」


 明るい口調で顔をほころばせると、


「俺も今度の日曜には顔を出そうと思ってます」


 このところ空振り続きの潤は、是非とも話がしたいと目を輝かせた。



 明日の日曜は潤と揃って出掛けることになっているが、土曜日の今日もちょっと寄ってみようか。仕事中そんなことをぼんやり考えている時、飾り付けてある生け花の花がポトリと落ちるのが見えた。珍しいことがあるものだと席を立つと、会社の電話が鳴った。




「八神さん!お母さんから」


 電話を受けた佐々木さんが受話器を差し出す。何か嫌な予感がして私はしばし佐々木さんの顔を見つめていた。当たって欲しくないと思いつつも、抱いた予感は覆らなかった。  


 お母さんからの電話はお父さんの死を告げるもので、受話器を耳に当てたまま私は目頭を押さえ身体を震わせた。





『エレガンス』のコーポを前に慌ただしいひと時が記憶の中を駆け巡った。亡骸を前にして潤がお酒を飲んでいる姿がぼんやりと浮かぶ。何を語っていたのか後姿からは察することも出来ないし、男同士の会話を邪魔しようとも思わなかった。それでも今の私にはなんとなくわかる気がする。


 お父さんが私に掛けた最後の言葉。


 あの時はてっきり同居のことだと思っていたけれど、恐らく違う意味のことを語っていたのではないだろうか。


(お父さん‥‥‥本当の娘みたいに大切に育ててくれてありがとう)



 心の中で感謝の言葉を改めて呟くと徐々に私の瞳が潤んでいく。それに伴い真新しいコーポが歪みだす。窓が外れ壁も取り除かれ基礎が消えていく。どうやら時間が逆戻りしているのだと涙目のまま見つめる。


 すると更地に戻った場所が畑へと変わり、そこを耕運機が動き始める。けたたましい音が消えたのはちょうど私の正面辺りに来た時だった。      


 操っていた男性が麦わら帽子をグイと上げてこちらを見た。


「耕運機が珍しいかね?」


 真っ黒に日焼けした肌に刻まれた無数の皺。恐らく八十歳は超えていそうな感じだ。


「いえ‥‥‥あの、こちらは何を育てているんですか?」


「あ~、ネギじゃよ。なんか熱心に見てたんで珍しいのかと思ってな。見かけん顔って言うか、おねえさんはこの辺りの人じゃないね?」


 五十を過ぎておねえさんなんて言われるなんて思わなかったけれど、これはこれで心地良くも聞こえる。だからなのか私は上品に顎を引いた。


「そうじゃろ!なんか支度といい垢抜けてる感じじゃもんな」


 おじいさんからの目線は爽やかなもので厭らしさは微塵も感じない。

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